森田療法 論文アーカイブス6

【目次】
1 Top
2 森田療法とロゴテラピー
3 脚註
4 関連事項

森田療法とロゴテラピー

藤田千尋(精神科医、常盤台神経科・院長)
©Chihiro Fujita 2012


 V.フランクルが『ロゴテラピ-』に関連した概念として、『実存分析』の用語を用い始めたのは1939年頃からのようであるが、これが日本に広く紹介され始めたのは、森田療法が次第に西欧にその存在を知られ始めた、1950年以後のことである。
 特にフランクルの著書、『死と愛 -実存分析入門』や『神経症 -その理論と治療』が日本語訳として出版されてから、『実存分析』、『ロゴテラピー』という用語は、日本においても臨床的に定着したものとなった。
 それは、患者が自己の苦悩を自己の責任として認め、回避したり、他に転嫁しないで、自らが生きていくことの中で受け入れていくというものである。
 『ロゴテラピ-』とは、神経症的苦悩の意味を、人間が生命の意味を求めて苦闘する表現として理解し、救おうとする精神療法である。
 そしてそれは、フランクルの治療観が、森田療法の治療観に著しく近似するものであることを、改めて我々に再認識させてくれた。
 その結果 日本の人びとは、ロゴテラピーと森田療法との類似について、多くの関心を寄せるようになったのである。 
 もちろん、そうした傾向の背景には、第二次大戦後、急速に日本の精神医学会に浸透してきたアメリカ精神医学や精神分析の影響から、日本人が落ち着きを取り戻し、正当な批判を向ける必要が生じたこともあるのだろう。
 つまり、精神分析が神経症(不安障害)の原因とみなす、コンプレックスや精神的外傷は、実は人間にとって普遍的なものであるかも知れない。そして、もし そうであるならば、何故ある人は神経症になり、ある人はならないのかという問いであり、それに関しては、何ら納得のいく解答は出されていないのである。
 ところで、森田とフランクルの神経症理論やその治療について、かなりの類似性のあることはすでに2、3の報告もあるので、私は両者の類似を述べるだけに留めず、差異や背景となるものを比較対照しながら、森田療法の特徴を浮き彫りにし、その理解を進める資料にしたいと願うものである。

 

 森田の考え方
 まず、両者が神経症(不安障害)の成立について、どのような考え方をしているかを比較することから始めたい。
 彼らは共に、患者が異常とも言えない一過性の心身の現象に注意を向けることによって、それが次第に症状へと強化され、意識に固着されることから神経症は成立すると考える。
 森田の場合、神経症の苦悩を、単に病的なもの、異質的なものとして理解しなかったことについては、これまでにもしばしば述べた通りである。
 森田のそのような理解の背景には、以下のような考えがある。
 患者は、人間が生きることに関わる心身的反応(自然な現象であり無害であるもの)を、自分にとって異常なもの、障害になるものとして受け止めてしまう。そして、ふと気づいた感覚や観念に虚構的な不安のイメ-ジを抱き、極力これらを排除しようと計らい、その事を絶対的なものとして、それにとらわれ、生活全体の調和を失ってしまう。
 結局それは、誰にとっても操作のできない意識現象に対する挑戦であり、実現できないために起こる不安や葛藤に、患者がとらわれているのである。
 つまり神経症の症状は、始めから異常なものが起こるのではなく、正常な感覚や観念である場合が少なくないのである。それらに患者が不安な関心を持つことから、それを排除しようとすればする程、それに増々こだわるようになる。そして、その試みのすべては身心の無駄な時間とエネルギ-の浪費と疲労が増強し、神経症的傾向がさらに増強され、患者は次第にとらわれの状態に陥ち入ってしまうのである。
 このような観察から森田は、症状そのものより、それに対する患者の態度を重要視した。つまり患者の苦悩は、従来、人格にとって異質的なものでもなく、運命的、固定的なものでもない。むしろ、あまりにも人間的であり、そして流動的なものであるという理解がそこにある。

 

 フランクルの考え方
 一方フランクルは、人間の行動は、精神分析や心理学が考えるような、性的衝動や権力意識のみによって駆り立てられるものでないことを強調する。そして、人間存在を統一的、全体的存在としてとらえた上で、神経症の症状の背後に、精神的次元における苦悩を認めた。 そしてそれらは、彼の理論の基本の一つとなる、『生命の意味に関する問いかけ』に結びついている。
 患者の苦悩は、青年期に典型的に繰り広げられるばかりでなく、時折、いわば運命から、心を根底から揺り動かす体験によって生じるものである。
 つまりフランクルは、成熟期における『生命の意味への問い』が、本来は何ら病的なものでないのと同様に、生命内容を求めて闘っている人間の、あらゆる心理的苦悩、精神的闘いも、何ら病的なものではないとしている。
 彼のこうした理解は、神経症の成立についての考え方にも一貫して認められるのである。そして、そのあとに展開される治療的過程にも、同様の考え方が認められるのである。
 フランクルの「いかなる場合にも、一人の人間の精神的問題性は『症候』として片づけられてはいけない」という考え方は、森田が常に神経質者の苦悩を病態として扱わず、むしろその苦悩を苦悩として、『あるがまま』に受け入れることこそ、真の治療への姿であるとした治療観と対比してみると、興味は非常に大きい。

 

 森田とフランクルの類似点
 こうした両者の神経症(不安障害)についての理解は、さらに症状発展過程や治療観についての類似性をも導くようである。
 森田が『生の欲望』、『ヒポコンドリー性素質』、『精神交互作用』、『予期不安』などで症状の発展過程を説明したように、フランクルも、表現こそ違うが、これとかなり近似した考え方を展開する。
 つまり患者は、不安からの逃避や強迫との闘い、さらに自己観察および予期不安によって、自分自身を神経症の檻に閉じこめ、これを肥大させていく。そして、強過ぎる欲求は、反って望むものの実現を不可能にし、逃避は反って怖れるものを出現させると考えるのである。
 フランクルは、これを次のように説明している。

 「先入見を持たない臨床精神医なら誰でも知っているように予期不安は、神経症の病因論の内部での本来の病因であることが稀ではない。即ち、予期不安は、患者の注意の焦点にある症状に集中させることによって、それ自体、浮動的な、そしてその限りでは無害なこの症状を固定させてしまう。・・・ つまり、症状は、相当する恐怖(phobia)を生み、この恐怖症は、症状を強め、また、こうして強められた症状は、この症状の反復に対する患者の心配をますます強める一方である。この完成した悪循環の中に患者は閉じ込められる。患者は、蚕がまゆの中に自分を封じこめるように、その中に自分を紡ぎこむ」

 そして彼は、次のような症例を具体例として挙げている。

「われわれの所へやって来たある若い医師であるが、彼は、多汗恐怖症に悩んでいる。生れつき彼は、自律神経が不安定である。
 
ある日、彼は、彼の上役と握手をするが、この時、自分がひどく汗をかいているのを観察した。その次、同様の機会に、彼は、すでに発汗を予期する。そして、この予期不安がそれだけで彼の毛孔に冷汗をにじませ、そして悪循環が完成する。つまり多汗症は、汗恐怖症をひき起こし、また、多汗恐怖症は、多汗症を固定させるのである」

 フランクルの治療的アプローチも、患者に正常への希求、異常なものからの逃避という態度を放棄させ、この逆説的な心的過程から離脱させることである。
 森田もこの逆説的な心的過程から起こる現象を『思想の矛盾』と呼び、これが神経症の症状を増強、増悪させる『悪循環』の動機づけとした。したがって治療方針も、この『思想の矛盾』から離れ、悪循環を断つことを第一と考えた。
 森田のよく使う「欺くあるべしと言うは、なお虚偽たり、あるがままにある即ち、眞実なり」という言葉は、この治療過程を物語っている。
 しかし、森田が最も重要なこととしたのは、患者の知的理解ではなく、患者自身の行動による感情的体験である。彼は、これを『体得』と表現するが、これを平易に言えば、自ら実行、体験してその後に得た自覚である。
 反対に知的理解とは、欺くあるべし、あるべからずと判断する抽象的な理解である。 これは、論理的な説明による説得と同じで、自然の感情や事実を無視する結果となり、ますます人間を迷誤の中に落とし入れるものであると森田は言う。
 つまり患者の苦悩は、こうした事実と思想との間の大きな格差、即ち、『思想の矛盾』によって強化されるので、治療上、このような知的な理解を求めるような説得は、反って有害な結果を招くとして反対した。
 そして、事実の正しい理解と体得を得るためには(特に悪循環を断つためには)、『不安のままに』、『症状のあるままに』、本来の『生の欲望』にのって自己の生活を実行するよう強調した。

 フランクルもまた、同様に感情面を重視し、ユーモアによって、患者に自己の症状から引き離すことを学ばせようとした。つまり、患者に自分の症状を調刺させることをすすめた。
 彼は言う。

「患者は、不安を面と向かって見ることを、いやそれを面と向ってあざ笑うことを学ばねばならない」

 また彼は、これについて、こう説明している。

「あらゆるユーモアが人間にとって自らを『状況の上』に置くことを容易にするように、彼に自らを症候の上に置くことを可能にする。事実、ユーモアは、悲劇的な気分に対して、また不安神経症者の生命不安に対して、必然的な対立を示す生活感情である・・・ 」
        
 森田とフランクルのとる態度は、症状に直面してこれから逃れず、あるいは、症状をあざ笑うことでこれを受容する態度を学ばすことであり、症状に対する患者の態度を変更させようとすることである。このことは、患者の示す症状を治療の対象とする考え方ではない。
 フランクルは、患者のとる自己観察や反省過剰、あるいは注意の執着から、患者を解放さすことに力点を置いている。彼のロゴテラピ-的技術の一つである『反省除去』とはこのことである。
 彼は、これを性的神経症の例を説明して、その必要性を強調している。
 彼によると、過度の観察や過剰な反省は、しばしば機能の正常な経過を妨げる。
 例えば、性的欲望への過度な志向には、性行為の反省が加わるが、これは病因的であるとする。つまり、観察と注意の過剰である。なぜなら、多すぎる観察は、多すぎる注意と同様に障害的な影響を及ぼす。
 そのためフランクルは、心理療法にとっては、無意識に留めること(再び無意識に返すこと)、あるいは注意を集中している症状から解き放すことの方が、重要であると強調している。
 彼は言う。

「理性とは、あまりに理性的にならぬことである」

「無意識、無反省こそ一層の賢者である」

 このようにフランクルは、『無意識の心性』への信頼、『心の智恵』への信頼を説く。ここから彼のロゴテラピ-は、実存分析に入り込むのであるが、それに触れる前に森田に戻ろう。

 森田は、不安を客観視する方法として、彼の特徴的な治療法である『絶対臥褥』と『作業療法』を強くすすめる。森田は、フランクルの逆説的志向に似た方法を、フランクルよりもさらに動物的、具体的に行っているので、それを簡単に紹介してみよう。
 ある中年女性の発作精神軽症(不安神経症、パニック障害) の患者。
 4~5年前から心悸亢進発作に悩まされていたが、その発作は、多くは夜間に起こり、その際、彼女は不安のために横に就床することができない。座位の姿勢でを布団に寄りかかり、苦痛が去るの待つ。一度発作が起こると3日ないし5日間、同様の発作が起こるという。
 森田がこの患者を診察した時、患者は昨夜その発作があって、今夜もまた同じ発作があるに違いないと言って強い予期不安の状態を示していた。
 森田は、この患者に次のように指示をした。

 「今夜、寝る時に発作が最も起こりやすいという横臥位をとり、自分から進んでその発作を起こし、しかも、その位置のままに苦痛を忍耐し、かつその発作の起こり方から全経過を熱心に詳細に観察するように協力してほしい。それは、あなたの体験によって発作の性質がよくわかるし、今後の治療にもなる。もし今夜、このために、どんなにはげしい苦痛があって、徹夜をするようなことがあっても、長い年数の苦痛と不安とを取り去ることができれば、その苦痛も十分価値のあるものである」

 患者はそれを実行すると約束した。
 その後、森田が彼女の診察をした時、患者は、次のように告げた。

「その夜、教えられた通りに実行したが、自分で発作を起こすことができないで、5分もたたないうちに眠り、朝まで何も知らなかった」

 以来その患者は、そのような発作を経験しなくなった。
 そのきっかけを作ったものは、発作の苦痛を覚悟した上で、自己の症状を客観的に観察しようとした態度の変化である。そうすると今までのような予期不安は、もはや意識の背景に後退してしまうのである。
 森田は、この患者の態度を「恐怖そのもののうちに突入したもの」と表現しているが、その説明として森田は、次のように述べ、症状に対する患者の態度変更の重要さを強調している。

「患者の苦痛というものは、もともと最初、心の置きどころを誤ったために、ますますその苦悩を増長せしめたものである。今までは、知らず識らずの間に、発作の襲来を予期してこれを迎え、一方には、これから逃れようとして心にまどいが生じ、彼らに苦痛不安を増大させていたのである」

 また森田は、『正受不受』(自然に、あるがままに受け入れれば、それは全く何も感じないことに等しいと言う意味)(註1)という禅の用語を引用して、患者が自己観察、反省を止め、気になるままに逆らわず、あるがままの態度をとることにより、苦悩に対するあらゆる「はからい」や「とらわれ」から患者を解放する、治療上の重要な着眼点とした。

 ところで、フランクルの実存分析では、人間は何かに指し向けられた存在である。したがって患者は、注意を症状からそらすだけではなく、自己自身を何かに向けなおすことを覚えるのだという。
 つまり、患者の人生に意味と価値を与えてくれるという意味で、一つの事物に自己をゆだねることによって、人生は前進し、個人的苦境は体験の背後に退いていくということである。
 これに対し森田も、『意識の対目的性』を強調し、感情の事実を、思考によって無視することは誤りであり、このような悪智は、かえって心の自然な流動を妨げるという。したがって、患者にこの悪智を去って『純な心』を持ち、『無意識的注意』に固定する状態にいたらせようとする。
 つまり、『心のままに生きる境地に到達させることを治療の目標』とするのである。

 森田は、このことを次のように説明している。

「私は、治療中に患者をして『純な心』『自己本来の性情』自分をあざむかない心というものを知らせるように導くことを注意する。
 『純な心』とは、私達の本然の感情であって、この感情の厳然たる事実を、いたずらに否定したり、ごまかしたりしないことである。私たちは、まず、この事実を基本として発展するのであって、善悪、是非の標準を定めて、そのあとでこれにのっとるという理想主義ではなく、また、自分の気分を満足させるという気分本位でもない。
 今、私たちが仕事をする時、例えば、いやなこと面倒なことも、そのままの心から出発した時には、そこにまず軽便、迅速、有効にしたいという工夫が起こる。…これに反して、理想主義の人は、私たちは努力、忍耐であらねばならぬ、きらいとか面倒とか思ってはならぬと考えるが故に、心はいたずらに、その感情を否定せんとする不可能の努力のために費やされて、自己をきり開いていくという方向には少しも発展しないのである。…このように、『純な心』と『悪智』との相違は、ただ体験によらなければ、言葉の上の説明ではなかなか会得しがたいところである」

 以上のような森田の説明でもわかるように、彼は、人間も、もとはといえば自然の現象のものであるから、ひたすら『自然の人間として』、自然に起こる心に応じて、現実に自分のできることを『手ばやく』実行していけば、そこに心身の自発的活動がおのづから発動されるという考えを根底に持っている。しかも、この自発的活動は、自己を向上し、発展さす方向へと発動され、決して自己破壊的行動へとは向けられないという捉え方である。(註2)

 

 森田とフランクルの差異
 以上のように森田とフランクルを比較すると、神経症(不安障害)の成立概論および治療原理は、互いに類似しているが、その治療技法の点では、両者に相違が生じてくる。そこでこれから、この差違の生じる事情の背景を考えてみたい。 
 まず彼らは、自己の理論を説明するに当って、しばしば医学用語以外の言葉を引用している。森田は、仏教、特に禅の用語といった日本旧来の慣用語を、またフランクルは、キリスト教的用語と実存哲学的用語とを巧みに使用して、それぞれの理解を浸透させようとしている。
 しかしこれは、いわば形式の類似ではあっても、文化的意味内容に大きな差異のあることは当然である。
 フランクルは、精神療法家について こう述べている。

「彼は無意識的な能力〈potentia〉を意識的な働き〈actus 〉に移さねばならない。だがこれは、最後に再び無意識的な態度〈habitus 〉を打ち立てる以外のどんな目的のためでもない。すなわち、精神療法家は、無意識的な遂行の自明性を最後に再び打ち立てる必要がある…」

 これに対して森田は、人間は、心身の活動といえども自然の現象であり、人為をもって自然を左右することはできず、精神活動でさえ、人間に出来ることといえば、『自然に起こる観念連合』の中から、わずかに『一言の概念をとらえ思想を組み立てていくこと』だけである。だが、自然としての生は、不断の活動であり、心は『内界と外界の間に相関的に絶えず流動変化し』決して固定したものではない。さらに自然としての人間には『生の欲望』が備わっており、これには、自己保存本能と共に発展向上の欲望が含まれている。
 したがって人間は、『自然に絶対服従する』時、かえって おのずから、この『生の流れに乗って、無限に発展向上していくことができる』。この意味で森田療法は、「自然に服従することを会得させる自然療法である」という。 

 以上、両者の学説の中で貫らぬかれる人間観は、両者とも人間存在を、本来『常に生成しつつ発展するもの』として捉えていることであるが、次の点で大きな差異がある。
 その第一が、世界へのかかわり方である。
 フランクルが、人間存在を『常に生成するもの』と捉えるとき、彼は、そこに『精神の抵抗力』を考える。
 実存分析によれば、存在には、根源的現象として、『精神性』、『自由性』、『責任性』の三つがある。
 『自由性』とは、『衝動』、『遺伝』、『世界』という三つの事実からなり、人間は、この三つの事実に抗して自らの主体性、本来性を主張することになる。
 したがってフランクルにおいては、人間はいかにして、この世界の事実性に抗し、これらを克服して、自己の本来性を確立するか、が問題となる。

 これに対し森田は、生命は「無窮に進化発展する」と述べる。そして そこでは常に『自然』が強調される。森田によれば人間は、世界、自然を、自己に固執して見るが故に不自由となる。
 人間が、自然な『心の真実』を自己にとって不都合だからといって意のままにしようとすることは、すでに迷いである。逆に、欲望も素質も、その事実性を『あるがまま』に受け入れ服従していけば、外界の刺激に応じた『自由自在な心』が流れ出す。そして、自然な『向上発展の欲望』が発動されて、おのずから自己の本来性が発揮されていく、と捉える。
 したがって森田の場合、人間はいかにして、自己を没却し、世界の事実性に還して、自己本来の性情を発現させるか、が問題となる。

 このように、いかに人間が世界とかかわるか、かかわり方をいかに理解するかについての両者の差異が、一方ではフランクルの『矛盾的介入』と、他方では森田の『恐怖突入』という治療的操作を導いたといえよう。
 そしてフランクルでは、患者に症状を自ら迎え入れさせることによって、症状や自己の心身の事実の非合理性を体感させ、この非合理性を『笑い』『調刺する』ようなユーモアによって客観視することを教える。そして患者は、症状から自己を引き離すことを覚え、やがて彼らがとらわれている心的作用を洞察し、これから解放されることになる。
 これに対して森田は、患者に『症状、恐怖に直面させ』 、『捨身の心境で心身の状態を甘受し、事実に即して、生きる』ことを指示する。そしてこの体験から、これら事実も、自己自身のものであることを覚らせ、自己の事実性を肯定し、引き受けることを学ばせる。
 このような過程の中で患者は、『自然の真理』に服従することを知り、その結果、『自由自在の境地』に至ることとなる。

 両者の差異として挙げられるものの第二は、人間の志向性についての理解の差である。
 フランクルは、ロゴテラピ-に関する多くの論文の中で、しばしば、『意味への意志』ということに言及している。彼は、このことを次のように述べている。

「人間の意味志向性というものは、精神分析によって誤認され、単なる衝動決定性に変形されてしまい、人間が価値へと努力する性質は、単なる快感への努力性に変形されてしまった。また、個人心理学は、神経症的な人間の中に、ただいわゆる劣等感に悩む人間のみを見るのであって、その実存の無意味性の感情に悩む人間を見落としているのである。すなわち、自分がより劣った価値しか持っていないことに悩む人間ではなく、むしろ彼の存在が何の意味を持っていないということに悩む人間を見落としたのである」

「・・・ 人間像の枠の内で…衝動的なもののみを人間の内に見て、現実に人間が決して衝動性からのみ『成り立っている』のでもなければ、精神的なものが衝動性からのみ『生じる』のでもないことを忘れている」

 このようにフランクルは、深層心理学者の極端な誤解を批判している。それは、人間が単に衝動によって『衝き動かされている』だけではなく、同時に『意味』によって『引き導かれている』存在であると、理解していることである。そして人間は常に、『何かから』自由なだけではなく、『何かに向う』自由も持っており、また『何かについて』責任があるばかりでなく、『何かに対して』も責任がある。
 つまり人間は、誰もが、その『自由』の中で、自分自身の『意味』を見出さなければならず、しかもそれは、「『神』に対して『責任ある存在』としてのみ可能なものである」と彼は言う。
 そして彼は、人間の超自我の彼方には、常に心の対話者、『汝=神』が存在することを説く。

 ところが森田は、ここでも繰り返して『自然』を説く。彼の言う『自然』とは、人生の実際の事実であって、それは、ただ人生を『あるがまま』に見ることにある。
 彼は言う。

「人生は、人も自分もともに苦痛であると覚悟して、苦しさを苦しみ、恐ろしさを恐れ、喜びを喜べばよい」

 森田は、人生を活動であると捉える。それは『すべての人間の生活は耐えざる活動』であり、そこには『耐えざる進歩があり、前進がある』、『人生は創造である』と捉える。
 この人生の事実を『あるがまま』に正しく受けとることが自然であれば、人間の心身の現象は、『道徳心といえども人の本能として自然に現われるもの』であり、『思想をもってこの事実を否定しようとすることは迷い』であり、不可能である。故に我々は、『価値感情も捨て』、『是非善悪とかいう理想の予言も没却して』(悪智を排して)、『ただ自前の日常現実に即して生きていけば』、おのずから『真理』は体得される、と森田は説く。
 そして彼は、次のように強調する。

「人間は、自分を救うものを歓喜して迎え求め、自分をおびやかすものを畏怖してさける。それは、生命の維持と発展をもとめる人間の本能的な感情である。この歓喜と畏怖とは、服従の心の生ずる根源である。生命の維持と発展を求めるが故に、人は神に服従し、自然に服従し、人に服従し、自分に服従する。自分に服従するが故に、人は自分の分をわきまえ、それを超えるようなことをしない。また、信念によって自重し、いつも自省して我執にとらわれないようにつつしみ、欲情の自分と他人に及ぼす害をおそれてそれを自制する。人に服従するが故に、他人の長所をとり入れて自分の短所を補い、他人のよい所を学んで自分の悪い所を直す。また、自然に服従するがゆえに、宇宙の偉大に思いをひそめ、万象万霊の円満具足の姿にあこがれ、小我の偏執にとらわれることがない。さらに神にあこがれるが故に、無上知に導かれ、慈悲の恵みに浴し、峻厳なる威力によって、邪悪な道から救われる」

 フランクルの場合は、治療面でも『自己観察』を捨てて、『献身に価いするように』献身し、没入せよと説く。
 そして森田の場合は、ただ『あるがままに』、『自然に服従し、境遇に従順であれ』、そして、目前の『日常的行動に』に没入せよと説く。
 以上のように比較してみると、フランクルは理学的な立場から、森田療法は記述的、直感的な立場から学説を展開している。
 そして両者は、ともに患者に『心身の次元』の中での悪循環や、とらわれを洞察させるために、あえて精神の次元に立ち入らせる。しかしその態度のとり方について、それぞれの背景となっている思想の違いが現われてくる。
 このことについて山本は、次のように説明しているが(註3)、それは適切な表現と言えよう。

「フランクルの実存分析およびロゴテラピ-の背景をなしているものは、世界の状況はあくまで個人的な主体の投企にかかっているとする、西欧の伝統の上に立つ、実存哲学であり、他方で、その主体性は神に導かれて初めてその本来性を開かれるとするキリスト教的観念であるが、森田療法の底を流れているものは、世界の状況として、人間をも含めて、すべて『宇宙、自然の真理』に従うと見、さらにこの真理を『虚無』と捉えていく方向、しかも、人間の主体性は、この真理を洞察し、これに自らを合一させることによって生れてくる、とする方向にある東洋の哲学、および、この自然の『無』の中に己を空しくして身を投ずれば、そこに自己の本来性は開示され、自由自在の境地を得るとする、仏教とくに禅の思想であるといえよう」

 以上 我々は、フランクルと森田の学説、ならびにその治療性の異同について概観してきた。
 特に両者の異同の背景となっている思想の違いを考慮に入れながら、彼らの人間観を見た時、いくつかの類似した表現の中に、彼らの治療技法や、それによって期待される人間像に大きな差異の生じることを知った。
 私が期待したものは、両者の比較によって、精神療法的系譜における森田療法の位置づけと、その性格を明らかにすることであったが、それが多少なりとも果たし得たとすれば幸せである。



脚註

註1  例えば雑音恐怖の患者は、彼らがある音を障害のある邪まなものとして遠ざけ、あるいは去ければ去けるほどその音にとらわれるが、その反対に聴えるままに、はじめから音はうるさいものとしてさからわずに受け入れ、自分の今為すべきことをやっていればやがては、そのことに夢中になって音は背景に去って、聴えていてもまるで聴えない時と同じ状態になることを指す。
註2  森田は、生の欲望〈seinoyokubo 〉(desiretolive)と死の恐怖とを人間のもつ根源的感情とし、これを図と地figure andgroundの関係においてとらえ、人間のあるがままの心の発動は、生きることにとって価値のある方向へ向ってなされるものとした。
註3

Yamamoto I. : Die japanische Morita-Therapy in gleich zu der Existenzanalyse und Logotherapie Abendlandische Therapie und ostliche Weisheit.


↑【目次】↑