森田療法 論文アーカイブス5

【目次】
1 Top
2 森田療法初期の治療形態 〜自然療法、鍛錬療法についての森田の説明〜
3 脚註
4 関連事項

森田療法初期の治療形態
〜自然療法、鍛錬療法についての森田の説明〜

藤田千尋(精神科医、常盤台神経科・院長)
©Chihiro Fujita 2012



 「自然療法」、「鍛練療法」についての森田の説明とその治療システム
 森田療法の“特徴”については、従来から森田療法と他の精神療法との比較からその異同性を論じるものが主であった。
 しかしその全ては、西洋の学術的なパラダイムによる理論的枠付けであり、そのことでは、森田自身も例外ではなかった。
 明治以後、西洋近代化へと邁進してきた日本人のものの考え方は、ほとんど無反省と思えるほど西欧的に文脈化しており、精神療法においても、西洋の科学体系としての価値判断が介入していることは、否定し難い事実である。
 したがって、森田の頃の日本の精神医学的思考の中には、東洋と西洋との両文化を統一的な観点から捉え、それを歴史的過程として理解しようとする考慮はほとんどなかったように思われる。
 それというのも、当時の精神医学における精神療法の動向は、それまでの神官、僧侶、あるいは心理学者などに委ねられていた精神(心理)療法が、やっと医師の手に移り、近代化へ向かう医療の一つとして、その認識が得られていたに過ぎない。
 そうした中にあって森田療法が、日本の精神療法史の中に初めて自己の位置づけを記録し、しかも、それが単なる西洋の模倣に終らず、独自の治療法として完成させた森田の功績は高く評価されるべきものであった。
 しかし当初の森田に、これが近代的意味での治療体系という明確な意識があったかといえば、それは躊躇せざるをえない。しかし科学性という意昧で、森田には強い自負があったことは事実であるし、現実それは、今日に通じる一つの治療システムとしてその機能を果たしている。

 森田は自身の療法を「神経質の特殊療法」と呼んだが、この呼称については、はっきりした考えはなく、しばらくの間 迷っていたらしく、ある時は、「私の療法」とか、「森田の療法」などと呼んでいた。しかし、後になって次第に森田自身も、他の治療法とは異なる神経質の病理に基づく特殊性から、これを「特殊療法」と呼んだ。
 しかしそれも次第に少なくなり、やがて「森田療法」が一般的な呼び名となり、1950年代にその名称に定着した。(註1)

 今、著者としての私が、この療法の原点に立ち戻って、森田がどのように、この療法を性格づけしたかを、次にあげる三つの論文から引用し、現代の森田療法を検討する資料としたい。
 年代は前後するが、その一つは、森田が晩年の1937年に発表した「神経質の精神療法」である。
 次は、1919年に、現在に見られる森田療法の骨子が初めて記述された「神経質の療法」である。
 最後は、森田の学位論文(註2)となった主著「神経質ノ本態及療法」であり、それを森田が修正補充して1928年に単行本(吐鳳堂書店)として上梓したものである。
 まず、論文「神経質の精神療法」のうち、定義の部分を読みやすく抄録して紹介する。

 『神経質に対する私の療法は、訓練療法である。一般に医師が患者に休学させたり、退職させたりするために病は、かえって悪くなるばかりである。我々は、神経質の素質を治すものではなく、陶冶、調節するのである。
 神経質者が、用心深く、細かいものに気づくことは、之を長所として益々発揮さすのである。決して之を否定したり、抑壓するのではない。例えば、頭重、心悸充進、羞恥感などは、これをその本心のまま、充分心配させる。
 ただ、一方では、理知に従って、これら症状を忍受させると同時に、人として自分のなすべきことをなし、また、その一方、自発活動を導きて、自由に生命の欲望に乗り切るようにすればよい。結局のところ、日常生活における欲望と恐怖との調和によって、総ての症状が軽減し消失するのである。』

 また論文「神経質の療法」では、森田はその定義を次のように述べている。

 『初め絶対的臥褥によって身体症状を恢復し、一方には精神的煩悶を破壊し、次に作業療法により子供に生まれ変りたる様な気持になり、身心の自発活動を促し、これを助長善導して身心を訓練するといういわゆる自然療法である。』

 そして論文「神経質ノ本態及療法」の定義的記述の部分では、森田はかなり詳細にわたって森田療法の“性格的特徴”を述べている。

 『病の療法は、診断によって、初めて定まるものである。病の本態、症状の病理を明らかにできないで、治療を施すときには、その罪は、測ることの出来ない程であり、ことさら、言うまでもないことである。
 神経質の診断には、先づ器質的疾患を除外し、さまざまの精神病及び他の変質性素質より起こるものとを鑑別し、且つ之と他の症状と合併の関係を探り、(中略)
 …従って療法は、その病の本性及び状態に応じ、常に臨機応変であって、型通りに拘ることは出来ない。あるいは、症候療法にこだわって、いわゆる「魚を矯めて牛を殺す」というような事を戒めなければならない。(一つのことに拘って、度が過ぎると、かえって物事全体を駄目にしてしまう)
 …私の見解では、神経質の療法は、当然、精神的療法であって、(中略)
 …其のヒポコンドリー性基調感情に対して、陶冶、鍛錬療法を施し、其症状発展の事情である精神交互作用に対しては、私の述べる思想の矛盾を打破し、上に述べた注意、感情等の心理(註3)に従って、之を応用しようと思うものである。そうして、之は常に患者をして、其の実証、体得によって、いわゆる自然に服従する事を会得させようとするものであるから、これは根本的の自然療法である』

 以上の森田の説明には、いくつかのキー・ワードが含まれているので、それらを整狸すると次のように要約される。

 ①キー・ワードとして:
 精神的療法、訓練療法、陶冶調節、神経質素質、ヒポコンドリー性基調感情、精神交互作用、気づく、理知、忍受、長所の発揮、身心の自発的活動、人としてなすべきこと、絶対臥褥、作業、生命の欲望、調和、実証、体得、自然に服従、自然療法、臨機応変、模型。

 ②訓練療法として:
 理知の働きによって症状を忍受し、人としてなすべきこと、作業(価値観にとらわれない)を行いながら、自己の性格の長所に気づき、その発揮に向って努力し続けることで、ヒポコンドリー性基調感情に基づく精神交互作用、思想の矛盾を打破し、それによって、神経質の素質を鍛錬、陶冶する。

 ③自然療法として:
  絶対臥褥によって、内在する生命の欲望に気づき、この自然の発動に乗って、身心の自発活動を促して行くことで、自然に服従することの意昧を会得し、生命の欲望と恐怖との調和による生活適応が自然に行なわれるようになる。その過程を身をもって実証し、体得する。

 以上の説明で分かることは、この療法は、先ず知性の働きによって、自己の症状を見極めさせる。そして、実生活に背を向けず、症状を忍受しながら人としての役割行動を行なう事実本位の体験的受容を尊重する。その実践から生活適応と自己実現に役立つ素質の鍛錬と、その強化が促進される。
 その過程は、治療の過程でありながら、実は個人の実生活に連続するものであり、その過程において、生の欲望と不安や恐怖が自然に調和されながら、適応生活が実現されることを自覚するようになる。それは、自然で素直な心の構えへの調整であり、それとともに不調和な構えの表徴であった症状もいつしか軽減し、それにとらわれない自分に気づくような意識の転回が起こってくる。
 さらに注目すべきことは、森田が当時から既にこの治療法について、その模型(原型)に留まらず、さまざまな状況に応じて臨機応変に行なうことを心掛けるよう治療者に強調していることである。
 以上の説明を基本において、筆者の理解する森田療法について述べてみたい。



 1)治療システムについて
 森田療法についての森田自身の説明を、初期と中間期、そして完成期のそれぞれの記述から紹介したが、それを要約すれば、この療法は訓練療法でありながら、それがまた自然療法であるということであった。
 それは、著者の理解に照らせば、次のように説明できる。
 森田の療法は、個々の治療形態が統合された、一つの治療システムとしての特徴を持っている。
 そのシステムとは、上述したキー・ワードで示された個々の治療形態で、単独ではそれだけのものに留まるが、それらが集合した場合、各治療法の機能にはなかった特質が現われる。それは、各治療形態の集合以上の新たな機能として示される。

 森田療法の治療システムの本性は、生活行動という動きの連続である。その連続の活動によって、キー・ワードに示した個々の治療形態が、システムのプログラムに従って相互に連係作用を生み出すのである。
 患者は現実の生活に直面して、その都度、自己の「境遇の選択」とその「決断」から、「自已本来」の生き方の実践ができる心身の「強さ」の鍛錬と、「自然な心」の涵養(かんよう)が促がされる。これが、森田療法の治療システムの特徴である。
 つまり、そのシステムの「自己組織化」によって、患者それぞれが、よりよく生きようと意識する。その志向性は、苦痛(不安)を(生の力と等価のものとして)そのままに受け入れ、自己のなすべきことに生の力を使う行動へと「誘導」され、彼らは、そのありのままの自己を相対化し、受容するようになる。
 この組織化された「治療技法」と「治療原理」の構造をもつ「治療システム」が、森田療法である。

 その治療過程の明文化は困難であるにしても、それぞれの治療形態が相互に関連し合いながら「とらわれ」の病理機制を解き、その治療を通して、症状の絶対化が相対化へと変化する。
 そして、患者それぞれが期待する「ありのままの自己の受容」と人間性の「自然さ」の意味に「気づき」、その「事実」を身をもって得心して行く意識の「志向性」の転回が、「治療の場」において生じるのである。
 それは、森田がこれを始めた1919年の当初から一応の完成をみた1928年、そして晩年の1937年の円熟期を通して、この治療システムを支える本質は、基本的に変わらないものであった。
 それは それぞれのキー・ワードで示された治療形態が、個々に作用するというよりも、臥褥・作業とによる治療形態と、不問・説明・説得という治療技法が、相互に関連し合って一つの治療システムを構成し、それが総合的に患者の心の病理を解く力学的機序となっている。この総合性が、森田療法がもつ時代をこえた本質を特徴づけている。
 つまり、その治療の背景にある病理論や、その理論的に裏付けとなる人間観、疾病観、自然観についての森田の考え方が、人間性の事実に基づく治療原理の洞察と相まって、時代を超える一貫した治療的意義のあるものとする根拠となった。
 その人間性の事実に基づく治療原理の確立は、森田が、積年の臨床治験の観察から得られたものであるが、神経質の病理の解明と共に、それを森田療法として整合する過程には、多くの試行錯誤と推敲という二十年にも及ぶ歳月の努力があった。
 そのことによって、この治療システムが、森田の活躍した時代の日本人の生き方を基本としているにも拘らず、現代に生きる人々にも同じように適用され、社会に生きる人としての自発性と協調性を練成する上で、実践的な治療と救済の役割の一端を果しているのである。
 この治療法を現代に引き継ぐものとして、以上のように森田療法を一つの治療システムとして理解した上で、以下のようにこれを詳述してみたい。



 2)森田療法の治療原理と説明・説得・不間によるコミュニケーションについて
 ここにあげる治療の原理とは、上記したように、臨床治験から導かれた人間性の事実に基づくものであり、治療実践の基準になるものである。
 治療者は、患者に認められる神経質のとらわれの病理や、その心性の矛盾に対して、治療的な挑発を試みる。それは原則的には臥褥と作業を始めとする治療場面での治療者と患者の関係となるが、その関わりを発展させる治療者の技術はすべてこの原理にそって行なわれる。
 また治療者は、患者が治療者に症状の軽減、消失、回復を求め、期待し続ける関わりのなかで、今まで長い間、生活の適応性や自己実現を妨げるものとして闘っていた苦しみが、異常でも病的でもなく、人がよりよく生きようとする過程で起こる現実の抵抗であり、反応であることを、その患者の状態に即して説明を加える役割がある。
 つまり、『その苦悩こそ、実は人間性の事実に根ざすものである。と言うことをいかに患者に分からすか?』という問題である。

「人は様々で、苦悩を強く意識する人もあれば、それ程気にしない人もある。 人それぞれに違いがあるから一概には言えないが、それを当然なこととして受け止め、自已実現に向って努力をする人も少なくはない」

 こうした説明を患者に与えることは、次のような目的がある。
 それは、今迄のとらわれやこだわりが、絶対的なものではなかったという心の変更。そしてまた、自分が今の状態に対して、多少とも距離を置き、客観的に自分を見る姿勢への期待である。
 しかし、この説明を与える時期は、患者の状態によって、それぞれ違いがあることは当然なことである。その目安は、作業への志向性が現実的な目標に向かい、それに打ち込み始める頃合いが、その時機と思われる。
 患者は、その説明を受け取り、自分の心の事実のままに、現実の生活場面でなすべき作業の役割を果すような気持ちが促進されるが、それもまちまちである。概して、その説明の時期が早いとその効果は少ない。
 上記の過程に起こる不安や苦悩は、敢えて治療の場に持込ませずに、そのまま苦しみに耐える他ないものと説得して、不問に付すことも、その治療原理にそったものである。
 この治療の説明・説得・不問への認識やその行動の基本になる理論のすべては、森田説の治療原理に基づくが、ここでは以上の説明に留めることにする。





脚註

註1 このことについて、高良自身の明確な言及はないが、公開の席で「森田療法」を初めて使ったのは、高良が1937年、日本精神神軽学会の宿題報告「神経質の問題」を報告した時である。
註2 大正十一年一月稿:『呉教授在職二十五隼記念文集』・第二巻・昭和三年十二月
註3  森田は、治療目的に対する手段に本療法の原理として、心理的墓礎となる精神の拮抗作用、主観と客観、注意と意識の関係、精神の調和作用、感情の法則などの説明を先ず述べている。

↑【目次】↑