【目次】 | |
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1 | Top |
2 | 森田療法における治療的環境条件 |
3 | 脚註 |
4 | 関連事項 |
藤田千尋(精神科医、常盤台神経科・院長)
©Chihiro Fujita 2012
森田療法(入院療法)における基本の治療構成が、絶対臥褥と作業療法であることは、周知の通りである。
その実施に当って、森田療法の入院施設には、従来からユニークな治療的環境条件があるので、その特徴を述べることにする。
近年の森田療法は、入院療法よりも外来療法が主流となっている。しかし入院と外来がまったく違ったものだと、それは森田療法とは言えないだろう。入院療法と外来療法に共通する森田療法の治療原理を浮き彫りにするためにも、本文が参考になれば幸いである。
治療的環境条件の概要
森田療法は入院療法が原法であるが、それが実施される治療的環境条件、特に空間と時間については従来からあまり問われることなく、一つの特徴として記述されるだけに留っていた。
しかし、この治療的環境が持つ意義は、決して見過ごすべきものではない。(註1) 入院森田療法の治療的環境条件としての空間と時間の意味は、治療を促進する上で重要な役割を果たしている。
この点に関しては、森田自身もかなり試行錯誤を繰り返したようである。(註2)そしてその体験をもとに、現行のような治療方針と、家庭的治療環境の設定を得た。
つまり、症状の病因である精神交互作用から起こる悪循環を阻止するために、まず防衛的注意作用、思想の矛盾などを打破する。そして、患者が心の事実を事実として、ありのままに受容できる態度を獲得することを治療目標として定めた。
そのためには、防衛のために強化された緊張状態を緩和させるため、患者を家庭的雰囲気の生活空間へ受け入れることが必要となる。
そうした受容的な雰囲気の中で患者は、人間関係と生活実践を通して、自己の持つ症状の原因や本来の自己のあり方を、体験的に洞察していく。
その治療手段として森田は、言語による知的操作ではなく、外部との交流を遮断する絶対臥褥と、非言語的である作業実践を基本とした。
患者は、外部との交流を遮断された家庭的な生活空間の中に受容され(註3)、毎日の生活作業達成を目標に、いかに時間を有効に使うかということを工夫し生活する。
治療者は、症状について取り上げず、「不問」のかかわりを原則として患者に接する。
つまり患者が作業の価値を問うことを不問にし、作業が目的本意に進められ、次第にその質と量を高めていくように促す。
そして、その過程で適時のアドバイスを患者に与えながら、症状にとらわれる態度を自然に変更させていく。
ここでは治療者による「不問」と「受容」という、一見 矛盾した関わりが、患者=治療者間での人間関係を特徴的なものにしている。こうした流れの中で、患者の態度は自然に変容されていく。
治療者は、患者の態度変容の兆しを機敏に察し、患者が自己と症状を“ありのままに”観察し、それを受け入れられるように指導する。
こうした治療者の治療的操作が実施しやすい条件は、治療対象が森田療法の適用症例(註4)を中心とする集団であることを前提とする。そして同時に、治療者が個別的に関われる小集団が望ましい。
患者は、入院環境で他律的な生活管理を受けるのではなく、自律的な自己管理で毎日を過ごす。
また、その治療期間内での生活行動は、治療過程そのものでもあるから、この環境内で生活を共にする治療スタッフの役割が重要となってくる。
以上のことを踏まえて、入院森田療法の治療における、空間的・時間的諸特徴を具体的に述べてみよう。
入院森田療法施設に見られる生活の空間的・時間的条件
森田は自己の経験を基に、森田神経質に対して入院による治療を考え、その施設として自宅をこれに当て、患者と生活を共にした。 この治療態度は、その後、森田療法のための施設を作っても一貫して行われた。
森田以後の森田療法施設も、機能的にはこれに順じたものが多い。しかし最近の傾向として、治療施設と私宅とは分離し、治療者はその治療的生活環境に、治療スタッフの一人として参加する傾向へと変ってきている。
施設は病院というよりは、いささか大き目な家庭的雰囲気を持った空間であることが望ましい。
入院する患者数も、診療所という行政的基準から、20名以下、それも10名前後の施設が一般的であり、病室は個室が主である。
臥褥室は専用が原則であるが、それを設けずそれぞれの個室で施行する場合もある。
個室や臥褥室の面積は約10㎡あればよい。バス、トイレ、洗面所は共同使用の施設が多い。
臥褥室は本来の隔離、安静の目的に適う条件として、外部からの刺激を遮断するために、遮光や遮音に留意し、外部との交流を断つように配慮される。
その他、診察室、薬局、相談室、治療スタッフ用の部屋、待合室といった一般の診療所と変りのない部屋。それに加えて、森田療法の治療施設に特有な、台所、食堂、居間、応接室、作業室などが設けられている。
屋外は施設によってまちまちではあるが、適当な広さの菜園や花壇などが、小規模ながらある所が多い。
このような生活空間的条件下で、患者は主として非言語的な生活による治療を受けるための生活をはじめる。
ここで強調すべきは、入院森田療法は、はじめからその治療期間の限定がなされているということである。(森田は約40日と限定しているが、現在では60〜90日間)
つまり、この時間的制限の中で患者は、現実の生活適応を体得するように、治療者の助力を得て、治療的な学習生活を送るのである。
入院中、個人面接や集団面接などの時間はあるにしても、一般の精神療法のような、個人的に一定の時間を与られる療法(セラピー)はない。(註5)
これを別な表現で言うならば、入院期間という制限された時間のすべてが、患者各自に与えられた時間である。そして それをいかに森田療法の治療方針にそって活用するかが問われることになる。
以上のような森田療法施設における生活の空間的・時間的条件は概ね次の機能を果すことを目的としている。
1)家庭的に受容される生活機能
2)生活の場が治療の場に直結する機能
3)個人の生活と集団内の生活が自然に結合する場の機能
1)家庭的に受容される生活機能
森田が「私の入院療法は家庭療法である」と言うように、施設は入院施設というよりは、むしろ家庭的な生活施設であるといえよう。それは一般の個人宅といえる生活空間であり、患者各自はいわば家族の一員として生活することになる。
つまり、森田療法を受ける患者は、身近な一般の家庭生活に近似した雰囲気の中へ受容されることが一つの特徴といえる。
神経症(不安障害)患者は、思考の「はからい」を重ねることにより、症状という「とらわれ」の袋小路に落ち込む。
治療者は、患者が「はからい」を中止し、症状に苦しみながらも、実生活へ適応していくことを体得するための治療環境を準備しなければならない。
そのために治療者は、患者を家庭的な環境へ引き戻し、患者と患者の持つ症状を受け入れることから始める。
患者の側からするとそれは、不安や葛藤の状態に苦しみ、人並以下であるという劣等感に打ちひしがれている自分が受容され、人並みの人間として扱われるという安堵と期待の意識である。
そうした家庭的環境に受容されることで、患者の過敏で防衛的な心の構えは次第に緩和され、自己の状態への強い観察が少なくなっていく。自らの存在や心身の状態を病的と疑い、異質と感じていたことが、決して病的な性質のものではないと気付き始めてくる。
そういった新たな気づきは、症状の原因理解や未来の自己の在り方を発見するきっかけともなる。そして知的な操作を止揚して、生活実践を通して、自分も人並みな付合いや生活が出来る人間であることを、体験的に受け入れ始める。
このように治療環境や治療者たちによって受容されるという患者の体験を、森田療法では治療過程の第一歩とする。
ここで患者にとって重要なことは、治療者を中心とする治療スタッフや他の患者との交流についてである。患者はこの入院生活での個人的な生活と集団的な生活という二面の状況内で、複数の人たちと交流を持つことになる。
家庭的治療環境における患者=治療者関係
まず治療者との人間関係について説明してみよう。森田療法での患者=治療者関係は、一般の精神療法おける患者=治療者関係と同様に、治療過程において中核的な役割を果すことは当然である。しかし、森田療法においては、それだけが治療の決定的因子としては考えられていない。
つまり、精神分析の患者=治療者関係のように、患者の問題点を言語的交流のみによって個別的、特殊的なものとして扱わないばかりか、その間の転移関係も本質的な問題とはしない。
むしろ森田療法での両者の関係には、言語的交流のみに終始せず、非言語的な治療手段、つまり臥褥や作業の過程が、いかに治療方針に沿って進展するかが重要である。
さて、森田療法の患者=治療者間の人間関係が、「不問」であることは既に述べた通りである。この「不問」の最も顕著な表れは治療第一期(臥褥)である。しかし起床後も、治療者は患者の訴えを原則的には直接の治療対象として取り上げることはしない。(註6)
なぜなら、そのことを直接取り上げ、解釈や説明を与えることで知的に理解を得させようとすることは、反って、患者が自ら過去にたどって来た思考操作という はからいの軌跡を再びたどり、ますます「とらわれ」という袋小路と追い込むことになるからである。
ここではまず、そうした思考のはからいから、症状の軽減や気分の転換をはかることを、一切中止させることが肝要である。
治療者は、患者の個々の訴えを不問にしながら、患者がこの治療環境で自らの日常生活をいかに遂行するかに目標を置く。
しかし、患者の症状の訴えを全く無視するのではなく、時には実生活の中で、その症状がどのように意識されやすいか、またそれが一般の健康な人の心理、あるいは生理反応とどう違うかを、折々の状況に即して検討し、吟味させることにもある。
つまり、森田療法における患者=治療者関係の要点は、患者の症状の訴えを全て遮断したり、反対に全面的に受容したりする極端な姿勢を治療者がとるのではない。
それは「不問」を原則としながら柔軟な姿勢をとることで、患者が日常生活での作業実績を評価すると共に、自らの心身の状態を客観視するための間(ma)なのである。
患者はこの間(ma)を持つことで、次第に自己が症状に苦しみながらも、積極的に作業をやれる自分に気づいてくる。
このような治療過程を促す患者=治療者関係の最も特徴的なものは、森田療法の基本に流れている哲学的思想、つまり治療者の持つ人間観の存在が挙げられる。
それは、神経質者が本来的に持つ健康的で建設的な資質と、自然治療能力の存在を治療者は信じ、それを引き出すことに治療的な努力をする態度である。
こうした治療者の一貫した態度は「不問」の形をとりながら、患者を自然に受け入れる。
患者もまたそれによってこの雰囲気に自然に融合し、自分が社会に通用する人間として受け入れられるという気持ちが芽生えてくる。
加えてこの雰囲気は、自分と同じ条件下で生活している他の患者にも目を向けさせる。今まで自分とは異質で無縁なもののように思われていた人が、自分とそれほど違いのない人のように思え、急に近親感を覚えると共に、彼らの言動が自分を吟味する鏡のような存在に思えてくる。
患者はこうして、自分の生活をすると共に、役割を持った協同生活をし、治療スタッフと一緒に一日の大半を過ごし、自分が受け入れられているという認識を日ましに深めていく。
治療スタッフたちは、患者に対し、家族であると同時に治療者という二つの役割的人間関係、つまり情緒的関与と情緒的中立という機能を果すことになる。
そして患者は、他の患者との相互的な観察や関与を通して、不安による防衛的態度は次第に緩和され、相互の共感や平等感が生じてくる。そして、自分や自分の病状を改めて見直し始めてくる。
そのことを近藤喬一(註8)はこう述べている。
「患者は医師、看護者その他の職員と治療期間を通じて毎日渾然一体となって、あたかも家族の一員のように扱われる。患者は普通の言葉で治療されるのでなく、家族の一員として治療関係に組み込まれ統合される」
ここで治療に関わるメンバーについて触れておきたい。まず治療者を中心にナース、ケース・ワーカー、調理担当者などがその構成員であるが、その他に母親のような役割を持つ人物の存在を挙げなければなるまい。
彼女は患者の日常生活を促進し、それが治療的にも一層の効果をもたらすように、治療者の片腕ともなる者、つまり治療介助者であると同時に母親のような役割の人物である。
そして患者にとっては、生活と治療が不即不離の関係となるように親身になって手助けしてくれる人物でもある。
彼女は、患者が当然気を配らなければならない実生活の心得や作法などを、必要に応じて気づかせたり、教えたりする。また、何かにつけて患者のよき相談者であり支持者でもある。
森田が、「自己の治療法が家庭療法である」と言ったその背景には、入院療法を始めた当初から、この役割を持つ人物の存在を念頭においていたようである。
森田の場合、その主たる治療協力者(co-therapist)が彼の妻であったところから、一層 両者間に緊密な協力関係が得られたのではなかろうか。
森田はこのことについて簡単に次のように述べている。
「家庭療法であるから妻の助力は大きく、彼女は治療上の助手ともなれば看護長にもなった」
この言葉は彼の治療体験を率直に述べたものであるが、それは森田が、当初自宅を治療施設としていたために、一層その特徴が鮮明になったわけであろう。
しかし現在も、この母親的役割を持つ治療協力者(co-therapist)を置いている施設は少なくない。つまり、森田療法を行う治療環境にあっては、こうした人物の存在は重要な意味をもち、それが一層 家庭生活的雰囲気を特徴づけている面もあるといってよいであろう。
しかし その治療協力者(co-therapist)は、森田の場合がそうであったからといって、必ずしも治療者の妻である必要はなく、人格的にも能力的にも、その役割を十分に発揮できる人物であることが、第一の条件であることは言うまでもないだろう。
森田療法の構造的機能を十分発揮する上で、以上のような家庭的な空間・時間条件や、母親的人物の存在が必須な条件であるか否かについては、多くの論議を残すところである。
それには藍沢鎮雄が指摘する(註7)ようないくつかの問題点があって、森田療法の実施そのものが限定されるきらいがある。
さりとて、これを一般の治療施設内で実施することは現実には多くの難点があり、よほど森田療法専属の治療チームでも作られ、それぞれの協力体制が整わない限り、森田療法としての治療成果を期することは難しそうである。
ひるがえって、従来から森田療法施設の持つ家庭的、受容的雰囲気がこの療法を行う上で、必須の治療的環境条件と考えられている。
そのことは無論、正論には違いないが、そのことがあまり強調され過ぎると、森田療法施設の治療的条件が持つ機能の意味が、正しく伝わらない恐れがあるように思われるので、ここでそれを付言しておく。
つまり、森田療法の治療的環境は家庭的、受容的な機能だけではなく、それと共に社会的機能が強く作動するという二面の構造を持ち、それが患者の自信を強め、自己受容を促していくのである。
特に治療期間の約1/3にわたって、外界との交流が遮断されることに意味がある。
つまり入院生活によって患者は、生活を避けず、頼らずに、自分の力でやる以外にないことを体得して行く。
このいわば自己受容の過程は、やがては自己が真に望んでいたものが何であったかを知るに至る。そして、実生活や社会に自分から関わろうとするようになる。
したがって、森田療法施設の治療環境は、以上のように家庭的な諸条件の一方、患者の社会的機能を促す条件という二面の構造を呈し、その目標は絶えず社会に向かって啓かれている。
2)生活の場が治療の場に直結する機能
森田療法が効果的に実行されやすい条件が、治療環境の持つ家庭的機能であることは、1)で述べた通りである。
患者は、森田療法の治療方針に即して生活を実践するわけである。そして、患者が行う生活実践と治療者の目指す治療過程とが不即不離の関係で進行した時、森田療法の構造的機能は効果的に展開されることになる。
患者は、入院期間の約1/3は外部との交流を遮断された中で、治療スタッフや他の患者との人間関係を介して生活することになる。
患者に与えられる課題は、自分でその時間をいかに過ごすかを考えねばならないことである。
つまり患者は、与えられた時間を使って自らの判断で作業をし、その作業の目的を果すという行動を自らに課して行く。
その行動はもっぱら実際的、物事本位的であり、よいと思うことは積極的に行動に移してそれをやり遂げるという体験を身につける。
あれこれと思いをめぐらして躊躇したり、そんなことをして何の役に立つのかなどの価値判断から、結局何もやらないで、症状にとらわれる患者もいる。そんな患者には、治療を希望して来た初心を思い出すように、治療者はアドバイスをする。
患者は、作業行為への決断、継続、工夫、そして完成という一連の行動を日常的に訓練する。そして、それがどのように身につくかが患者の生活にとって重要となる。
例えば家庭生活の場で基本的なことは衣食住であるが、そのうち食生活行動を例にとってみよう。
患者(治療の第三期以後にある人たち)は、それぞれが自主的に役割を定め、相互の協力でそれを実践する。具体的には買物、献立、炊事、配膳、後片付けなどの作業をやるが、その一つ一つの役割行為がうまく果せるか否かが、食生活を円滑なものにする鍵となる。
森田も、そのことについて次のように述べている。
「炊飯が一番よい仕事だと思う。炊き出したらそれっきり絶対絶命だ。不安でもいやでも続けてやる以外に途はない」
つまり、この食生活行動は自分だけのものでなく、一緒に生活する人たちの生活にも直結する事柄であるから、役割の重要性を自覚させる訓練にもなる。
患者は、自己の症状の苦しさやそれに対する防衛態度によって、日常生活に積極的に関わる態度がなかなか身につかない。しかし やがて防衛的な構えも薄らぎ、生活行動に対する比較的冷静な吟味や自己評価がなされるようになる。
この変化は、患者の日記内容や個人面接、集団ミーティングでの発言、日常の話し方、話題のとり方、その他様々な態度にも現れる。
こうした変化は薄紙をはぐように次第に現れる。そして患者の意識の中で、日常生活への態度の変化や意欲が増すにつれ、目的本位の行動が多くなり、患者にとっても毎日が有意味ではげみのある時間となる。
治療者は、患者のそのような生活の変化を機敏に察し、それに対し、日記へのコメントや、個人面接時に治療者の正当な評価を伝える。
多くの場合、患者の自己評価は、治療者のそれより低い。しかし治療者はそのことについて直接的なコメントは行わず、自己の意識だけでなく、自分全体を評価の対象にするように指示したり、あるいは生活のあり方について具体的にアドバイスするに留める。
患者にとって、このような家庭的治療環境下での、現実生活への適応性を獲得して行く努力が、症状の成因理解や、それを受容できるような治癒への過程を促がす機能に結びつくことになる。
また治療者側は、この空間的、時間的条件下で、ある時は厳しく患者の訴えを「不問」にする。またある時には、冷静に自己と自己の周辺を観察するよう指示を与えながら、患者を健康な資質を持つ人格者として、共通の時間を共に過ごす。
この治療者の態度は、いわゆる父親的であると同時に母親的であり、情緒中立的であると同時に、情緒関与的という両義的な役割をしている。それが森田療法の持つ「生活の場即治療の場」という特徴的な機能といえよう。
3)個の生活即集団の生活
患者は以上のような特徴を持つ治療的環境で生活するが、原則的に外部との交流の少ない、しかも単独の生活を始める。
つまり、施設内でも治療の第三期までは他の患者との交流は少なく、食事時間以外は殆んど制限される。(特に自分の症状についてお互いに話し合うような会話は禁止される。)
患者は、様々な症状に苦しみながら、治療スタッフと共に自己の生活を、ひたすら物事本位に行っていく。
こういう状況では、患者はあくまでも孤独な生活をしているといえる。患者は、意識の中では、自分は人並みの生活ができない人間ではないかと案じている。しかし、治療スタッフや他の患者にも疎外されることもなく、むしろ受け入れられていることに気づき始める。また自分の方でも、次第に治療者を信頼し受け入れようとしていることに気づく。
さらに患者は、人並みな生活ができそうな予感もしてくる。それどころか、積極的に人の中に入って自分のやりたいと思うことを実現させ、人にもそれを認めて貰いたいと願っているのだという気持も顕在化し始めてくる。
そうした意識の変化は、患者に自然で素直な心が甦ってきた兆しであり、やがて自分が真に実現したいと願っているものは何かを考えるようになる。
今までは自分が劣等ではないかと考えるあまり、自分が傷つくことのないようにと退避し過ぎていたのではないかという反省も出てくるようになる。
そうなると、今まで一人ぼっちの生活であると思い悩み、しばしば挫折しそうにも思われた自分は、決して孤独ではなく、苦しみであった症状にも何とか耐えて行けそうに思えてくる。
他の人たちの言動を見ていると、自分と同じような所もあるが、自分と違って健康な人と変りなく生活しているように思える。自分もやがてそうなっていけるといい、いやできるに違いないという望みも懐けるようになる。
そうした患者の心の変化は、治療スタッフ、特に母親的役割機能を果す人物の支援によることが多い。治療の第四期に入るのは、このような状態の時に相当する。
この時期になると、他の患者との交流が始まるにつれ、患者は自分の訴えが不問にされながら、いつの間にか自分という全体が治療者に受け入れられているという肯定的な意識を抱き始める。
その意識は、これなら自分も人並みに世間に受け入れられるという希望に変化して行く。
特に、施設内の生活に関する集団討議に参加したり、協同の作業実践は、社会生活へと啓かれた自分の存在を自覚するようになる。そこで単なる家庭的な意味だけでなく、「世間」という実社会的環境としての治療環境は、二重の意味を持つようになる。
このような意識の変化過程は、「世間」に対して退避的な姿勢で過して来た患者が、家庭的、受容的な環境の中で、依存を排した「不問」を通して、目的本位の行動を体験し、社会参加欲求と自己実現欲求を触発させる。そしてその結果、自己を実現させて行く過程を物語っている。
要約すれば森田療法施設での治療環境は、患者それぞれが個別に参加し、治療者との関係において個別の治療的生活をしながら、いつの間にか患者が持つ集団参加への意識を引き出して行く機能を持っていると言えよう。