【目次】 | |
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1 | Top |
2 | 外来森田療法 |
3 | 脚註 |
4 | 関連事項 |
藤田千尋(精神科医、常盤台神経科・院長)
©Chihiro Fujita 1994, 2012
はじめに
神経質の特殊療法として1919年に森田正馬(1874〜1938)によって始められた治療法は、その後、次第に森田療法と呼ばれるようになり、日本独自の精神療法として現在に継承されている。
治療対象は森田神経質であるが、その他の神経症(不安障害)や器質的障害の領域でも有効な治療法として応用されるようになり、今では国の内外において注目されている。
I 治療概念
この療法の特徴は、患者の症状を病的なものと見なさず、患者がそれを受容し、自らを生かすことにある。つまり、人間の生成発展を求める欲求や不安などの心の働きを、自然な現れとして、ありのままに容認する日本的思惟を治療理念としている。しかも その根底には、人間に寄せる基本的な信頼がうかがえるのである。
この理念を基盤とする森田療法は、入院が標準の治療法であり、心身同一論の視点から、絶対臥褥法と段階的な作業とを有機的に組み合わせ、心身の調和を図る治療システムである。そして その過程の中で患者は、とらわれを解放し、自己に内在する自然良能(註1,2)、自然治癒能力(註3)、自己治癒能力(註4)を触発し、人間性をありのままに発揮させ、生活適応性を高めていく。
しかし近年、精神療法の治療対象も増大し、外来においてもこの治療法への要請が高まり、これを応用した治療的救済活動(註5)も盛んに行われるようになってきた。
そうした外来での治療活動が、いつしか「外来森田療法」と呼ばれるようになり、現在ではその数においても、入院をはるかに超えるものになっている。
森田自身は、これを入院治療法として完成させたが、治療の実際では入院に限らず、通院時の面接や通信による日記などを通して、この治療による指導を行っていた(註6)。しかし、改まって「外来森田療法」としての記載はない。
このような事情の「外来森田療法」であるが、従来から、その方法や有効性について多くの発表があり(註7、8、9)、また森田療法学会(1991)においても「外来森田療法の効用と限界〜私の森田療法〜」を主題としたシンポジウムが行われている。
このことは、「外来森田療法」の名が名実共に臨床の場に定着してきたことを物語る動向とも考えられる。
こうした折に、私が「外来森田療法」について発表の機会を与えられることは、時宜を得たものと思われるので、日ごろ私の行っている「外来森田療法」の実際をここに紹介することにする。
II 外来森田療法の実際
私は森田療法を次のように区別して実施している。(註12)
1)森田神経質の特殊療法
①入院森田療法
②外来森田療法
2)森田療法的アプローチ
他の病理を持つ障害で、森田説で理解される心情への
治療的助言など。
ここでは、1)の特殊療法としての外来森田療法を中心に、その実際を述べることにする。
治療目標
外来の場合は、入院と異なり臥褥や作業のような定まった形式はないが、共通することは次のような治療目標である。
それは一言でいえば、森田説の鍵となる「思想の矛盾」の打破である。
これは自分か求める自我の理想水準と、現実の自我意識との間にある矛盾。つまり「斯くありたいと願うこと」と「斯くあること」の違いにこだわり、斯くある自然な事実をむしろ異常と考え、それにとらわれている状態を、改めて患者白身に気づかすことである。
その過程で患者は、自らの苦悩をすべて不問にしてそれに耐え、内在する「生の欲望」にのって、今やるべき生活を実践する。そしてその折の主観的な苦しさも客観的な行動も、すべて ありのままに受け取る事実本位の態度。つまり森田の言う「素直な心」の具体的な展開である。
治療者は、この治療目標に沿って治療を進めるが、外来では言語による交流が中心になるため、治療者の説明・不問・説得の技術と力量、そして患者の理性を忍耐強く待つことが必要になる。
治療開始の手続き
治療を実施するに当たって、まず初めに治療者は、この治療が治療をする者と治療を受ける者との協力によって、初めて適切に進むことを患者に話し、次の治療手順と両者の役割を明確に説明する。
治療の手順(註10)
①面接頻度:1回/週を原則とする。
②面接時間:10〜40分(初診時は約60分)
③日記の記載:原則として、1日の行動内容を1ページ以内に読みやすくまとめる。その所要時間は30分以内に留める。
治療者と患者の役割
治療者の役割は、まず患者の発症状況と受診に至る経過を中心に把握し、患者が治療に求めるものを明らかにしていく。 そして、その上で森田療法に特徴的な、説明・不問・説得を適切に行う。
それは、患者の苦痛が、よりよく生きようとする生活の諸条件によるものであることを、患者自身に気づかせるためである。
同時に、患者が治療者の指示に沿いながら生活することが、治療にとっても必要な協力であることを説明し、以後の面接ごとに、患者の実生活における行動を具体的に聞き、あるいは日記を通してそれを吟味し、評価することである。
患者の役割は、治療者の指示に沿って現実の生活に直面し、なすべきことを実行する。
それは、患者自身が自らの境遇を受け入れて回避せず、健常者と変わりないつもりで、苦しみながらも自分の役割行動を通して、自分を生かす努力である。それをありのまま日記に記載して治療者に提出する。
「治療の場」と「生活の場」の関係(註10)
以上の説明と説得によって、患者が「治療の場」で得た認識を自分の「生活の場」へ還元し、それを具体的な行動に移し、その結果は再び「治療の場」の面接で検討される。
この「治療の場」の面接と「生活の場」の実践の反復によって、患者の心は次第に気分本位から事実本位へと深められる。
面接に当たっての注意事項、特に説得について
面接を進める上で具体的に注意すべき諸点を次にあげる。
1)治療者は、患者との面接において、とらわれの強い患者が、実生活の境遇に背を向けず、不安ながらでもやるべきことをやるように促すには、どのような配慮が望ましいかを常に考える必要がある。
2)その基本は、治療者が患者の生活を多面的にとらえ、その苦悩の意味をできる限り分かるように努めることである。
この治療者の行為から、患者との疎通性は開かれ、患者の治療者に対する信頼関係を深めるとともに、治療者に任せてみようという気持ちも促進されることになる。
3)治療者は この過程の中で、患者が治療者に求めているものは何か、またそれが、患者の境遇の中で、果たして実現できるものか否かを患者に見極めさせる努力をする。
治療者の、その問いの意味が患者に理解されるに従って、症状とその実態を見極めようとする傾向が生じ始め、治療者の指示が受け入れやすくなる。
4)しかし治療者の説得によって、患者自身が言葉による心の操作を自分に強いるようになることもまれではない。
たとえば、「境遇に柔順に従い、自分自身を生かす」ことを話すと、境遇に柔順に従うにはどうすればなれるかと考え、治療者の言葉にとらわれてしまう。
それは、「斯くなればよし」という結果と「斯くなるため」の手段とは別であることに気づかないために、患者は治療者の言葉だけをとらえて、その結果を求めるため、いつまでも自己そのものになり切れないのである。
5)また治療者の説得は、患者の症状が人間一般の心理に共通するものであるということを、初めから一方的に押し付けても、その効果は期待できない。
一般に外来の治療では、説得による治療がいつも円滑に進むとは限らず、ある時は治療者を信頼してその指示を受け入れるかと思うと、またある時は治療者に抵抗することも少なくない。
そのため治療者は、その都度の工夫が必要になるが、この過程は文字どおり「日暮れて道遠し」の感が強く、心の疲れるものである。
この抵抗する患者の態度について、森田は次のような趣旨を述べている。
「患者は決して治療者に満幅の信頼を置いているわけではない。もし、始めから治療方法が患者に分かっていて、それが絶対の効果があるという保証でもあれば、彼らも何の不安も抱くことはないが、そうでないから治療者に不信を待ったりする。
それも彼らが今までに種々な治療を受けてきて、それらのすべてに効果がなかったという経験は、今も治療者に全面的な信頼を置けない理由にもなっている。治療者もしたがって患者に信頼を強いることはできない。
ただ患者は、不信や不安があっても、どうすればよいのかはっきりしたことが分からないのだから、その気持ちのままに治療者に任せて一緒に努力してみるという態度が大切であり、それが素直な心といえよう。このことは科学的実験と同じで、成功不成功は分からないが、それにとらわれずに、実験してみることが大切である」
このように治療者は、患者の様々な抵抗を経験するが、それらを越えて、なお治療者の指示が受け入れられるには、次のような条件が大きな決め手になることがある。
その1つは、患者の治療に対する心の姿勢と、自らの境遇を選択する決断であり、もう1つは、説得の構造とその特徴である。(註10)
①患者の心の姿勢と「境遇の選択」
「境遇の選択」とは、森田の指摘にもあるように、治療者に任せる患者の心の姿勢。つまり「素直さ」であり、その態度が治療を進める鍵になる。
この姿勢とは、言われるままの追従ではなく、また単なる批判や反発、あるいは不信でもない。むしろこれらの様々な気持ちを持ちながら、なお治療者に任せる態度である。
パスカル(『パンセ』268断章)はこう言っている。
「疑うべきときに疑い、確信すべき時に確信し、服従すべきときは服従することを知らなければならない」
この理性の力が「素直な心」(註11)を引き出し、それが これまでの生き方に訣別し、今ある状況の中でやるべきことをやるという、心の置き所となり、自分の「境遇を選択」する自己決定が芽生えてくるのである。
②治療者の説得の構造と特徴
治療者の説得は、森田療法の治療目標が患者の体験に、いかに生かされるかによって、その効果の良否が定まる。そして それは論理的な方法ではなく、体験の重視が基本となる。
つまり患者の心身の状態が、強い不安や不快感を伴うものであっても、そのままに受け止め、 それが発症する生活状況を見極めて、なすべき対応を行動に示し、自分を生かす体得の勧めである。
それは理論の力で症状を論破するのではなく、その状況に則した行動による体得に力点を置くものである。
たとえば、緊張すれば緊張するまま、不安であれば不安なままに、その状況の中で自分を生かすこと以外、方法のないことを体験的に分からせるのである。
したがって 説得の意味は、患者が論理的に理解することではなく、信じる信じないに関わりなく、事実ありのままの態度の体得を促すことにある。
6)治療者は、その都度の面接において、問題点を患者に要約させ、次の面接時にどのようにそれが「生活の場」で実践されたかを患者から説明させる。
7)治療の終結は、原則的には治療者と患者との話し合いで決める。
8)薬物は原則的には使用しない。
III 症 例
説得の実際を、症例によって述べてみたい。
ある大学卒の対人恐怖者(男)は、人前に出ると人一倍強い緊張感で全身がこわばり、会話 はおろか声もろくに出ず、相手の話も耳に入らず、自分の状態ばかりが気になり、会議などでも役割が果たせないと訴える。
実際には 人並みの生活をしているが、それは眼中になく、ひたすら人前で緊張する気の弱さのために、後れを取る自分が情けなく、それを悔やんでばかりいる自分がまた腹立たしいという。
治療者は、患者にまずこう聞く。
「その緊張はどんな時に起きやすいか?」
それに対して彼はこう言う。
「会議の席上で改まって発言しなければならない時が最も強い。しかし、今は条件を選ばず、人前に出る前から緊張している」
続いて治療者の問い、
「自分がどうなればよいのか?」
に対して、こう答える。
「人並みに、緊張しないリラックスした状態になりたい」
「では、その求めることが、いつでも期待するようになると思うか?」
と問うと、
「以前はこんなにまで緊張はしなかった」
と言う。そこで、
「これまで君がしてきたことが、今どのような結果に終わっているかを考えたことがあるか?」
と聞く。
彼は、これまでの 緊張と恐怖に圧倒される小心な自分との戦い、その経験を語る。どうすれば強い緊張感から解放されるかを求め続けたが、それらがすべて、これまでは徒労であったと答える。
それでいて彼は、自分の生活が通常と変わらないことを認めたがらないのである。
そのような彼が治療に求めることは、「人並みに、緊張しないで堂々と意見が言える自分になりたい」ということであった。
治療者は、患者のこの求めに対して、いくつか聞いてみる。
「他人は少しも緊張していないのに、自分は人一倍緊張するという判断は、何を根拠にそう言えるのか?」
「他人の外見を自分の内心で推し測って、自分の緊張は人一倍強いと決めてしまうのは、適切な比較といえるだろうか?」
「改まった場で、緊張もしないのが人並みと思えるか?」
そして、次のような比喩からその矛盾を説明してみる。
「泳ぎたい人は、水に濡れても冷たくても水に入って泳ぐが、そのうち夢中になれば、冷たいことも濡れることも気にならなくなる。水の中で泳げば嫌でも濡れないわけにはいかないように、人前に出れば緊張しないわけにはいかないのではなかろうか?」
このような治療者の問いから、患者は次第に自分が症状と思っていたものを改めて見直し始め、治療者の説得を受け入れようとする傾向が出てくる。
さらに治療者は患者に、
「これまで君は、自分の状態を部分的にではなく、全体として見たことがあるか?」
と尋ねることで、彼がこれまで、一向に気づこうとしなかったことに改めて注意を向けさせる。
それに続いて、「その緊張感が起こるには、それだけの状況との関わりがあってのことで、それを考えないで、苦しいからといって緊張感だけを異常なものと考え、取り除こうこすることに無理がある」 と考えさせる。
このような問いかけや説明から治療者は、患者が「生活の場」で、「一切のはからいをせず、苦しいながらも自分のやるべき役割を果たす」指示をし、その実行を促し待つ。
もしもその説得が、
「人は皆、人前では緊張するものだから、気にしないで」
「もっと気を大きく持て」
などの助言であると、それはかえってマイナスになる。その理由は、いつも彼ら自身が、自分にそのような勇気づけをして不成功に終わり、そのためにかえって執着を強めた経験を持つからである。
ところで、このような問いかけや指示は、これまで彼の心になかったわけではない。しかし彼の努力は、やはり人前に出ることの不安に対する「はからい」にあったから、実際の努力は避けていたことになる。
その結果、「緊張する」自然な反応でも、彼の生活には不本意なものとなり、取り去るべき症状となってしまったのである。そして自分自身の自己実現を忘れ、「人並み」になることばかりを求めるようになってしまった自分に気づかないのである。
しかし患者が、それを生活行動全体から見ることができれば、それは人間のごく当然な心理・生理的反応であり、あって当たり前なはずの現象なのである。 そして、彼にとって治療者のこの説明と説得は、今までとは違った意味のものとして一層生きてくるのである。
おわりに
私が、日ごろ実施している「外来森田療法」の実際を紹介した。
それは次のように要約される。(註9)
(1)自己の生活状況(境遇)から症状の実態に着目する。
(2)人間性の事実を受け入れる。
(3)決断する(境遇の選択、素直な心)。
(4)自己の役割行動を実践する。