森田療法 論文アーカイブス 1

【目次】
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2 森田療法と東洋思想 〜特に自然感をめぐって〜
3 脚註
4 関連事項

森田療法と東洋思想
〜特に自然観をめぐって〜

藤田千尋 (精神科医、常盤台神経科・院長)
©Chihiro Fujita 1999, 2012



 はじめに ~森田の治療思想~  
 日本文化を土壌に成立した森田療法は、長年にわたる歴史を経て、改めてその精神療法としての真価が問われようとしている。  
 そんな森田療法は、その治療原理や治療の枠組みに大きな修正もなく、折々の要請に応えてきた。それは、森田療法が近代西洋の精神医学の動向であった体質論や治療論から脱化し、森田独自の精神療法として成立した結果であろう。  
 森田療法は、森田が創始した組織的な治療形式(臥褥・軽作業・作業)という特質をもち、それが優れた治療効果のあることは、森田を初めとする多数の治療者たちの業績からも明らかなことである。しかし、この療法の特質は、技法の構成にとどまらず、その治療原理と治療目標を支えている森田の治療思想にある。  
 同時に森田療法は、その特質の基本的骨格や実践方法に仏教、特に禅思想の影響があるとして、今でもこれを禅療法と呼ぶ人もいる。  
 しかし森田は、当初からそれを否定する趣旨の解説をしている。(註12)

「私の現在の治療法を組立てるに至ったのは全く禅とは関係がない。禅に由来するようにいわれるが、それは間違いである。これは、もとは西洋流の療法から次第に脱化・発達したものである。強迫観念の本態を知ったのは心理学的であって宗教的ではない。強迫観念の原理を発見したから、煩悩即解脱ということが分かった」

「この療法は精神の煩悶や葛藤を否定したり回避したりするのではない。禅やその他の仏教で煩悩を断つというが、私の療法では決して断つのではなく、煩悶のままの心が平常心であり、両者は相即である」

「私の著書に、禅語の多く引用されているのは、みな強迫観念の治療に成功して後に初めて、私には禅の意味が分かるようになったものである。すなわち、禅と一致するからといっても、禅から出たのではない」


 こうした森田の解説にもあるように、森田療法は、その適応対象の設定、病理機制や治療構成から見ても、近代西洋の精神医学的な方法論に基づくものであって、森田が意図的に禅思想を根拠において組み立てていないことは疑いのないことである。しかし同時に、この療法の特質が、西洋の概念知だけでは充分な理解が得られないことも事実である。
 そうしたことを考慮に入れると、森田療法の特質を知るにはやはり、これを支える森田の治療思想、特に人間事象をめぐる自然観が検討され、理解されなければならない。
 以上のことを踏まえて、森田療法の特質について私の理解するところを述べてみたい。


 森田療法と東洋思想とのかかわり  
 初め森田は、神経質に関して当時の精神医学の動向であった、体質論に基礎をおく疾病論や治療論を出発点としている。しかしやがて、これを換骨奪胎した病理論とともに新たな治療論を確立させていった。
 晩年に近づく1933年頃から森田は、自説とその療法の要旨をドイツの専門誌へ発表する企てをもち、当時の九大教授であった故・下田光造博士の斡旋で投稿を試みた。しかしその内容が、理解困難という理由で受理されず、森田の生前中は実らないままに終わった(「森田博士の追憶」『下田光造先生論文集』1985)。
 森田の没後二年目の1940年に、九大教授の故・中修三の尽力によってその論文は掲載されたが、残念ながら、ほとんど注目されることはなかったようである。
 このことと直接の関係はないが、かって中根千枝はこのように指摘している(註16)

「……日本の場合は、どの部分をとってみても、近代西欧文化の諸要素が一つの機能するシステムとしてではなく、きわめて断片的に無関係に受容されている。もちろん、その受容する側ならびに時期においては、それ相当の理由づけなり、合理性があったとしても、受容される側からみると、それは驚くほどアトランダムな断片的な選択であったといえよう。このようにして受容された無数の断片を統合するシステムは、あくまで日本のものである」

 これと同じ事情が、森田の場合にも、まったくなかったとは言えないのである。
 こうした西洋文化との接点と対照的な事情が、東洋思想とのかかわりにはある。なかでも仏教思想は、日本の社会に早くから流布され、一般家庭にも年中行事の形で定着し、生活習慣にまで浸透するものとなった。
 たとえば弥陀の誓願として、その信心を説いた親鸞の法語を集めた『歎異抄』は、広く読まれて日本人の宗教的心情の形成に強い影響を与えた。
「空」や「縁」の思想(註1420)は、「人を人たらしめる規範」として、日本人の実践倫理を支え、また「離苦」「解脱」「現世利益」などは、安心立命を求める道として、大衆に大きな影響を与えるものがあった。
「天の思想」(註1420)を基盤とする儒教も、日本固有の神道思想や仏教、あるいは老荘思想とも重層し、中世を経て近代社会の中心思想として日本文化に不即不離のかかわりをもち、修養の面でも、学問としても広がりを見せた。
 たとえば石田梅岩(1685~1744)(註20)が江戸時代に行った三教一致(神道・儒教・仏教)の石門心学の実践は、勤勉、倹約、和合、自立、あるいは道徳の精神を育てる庶民教学として広く普及した。
 このことについて安丸良夫(註24)は、

「それらの諸徳目が、通俗的、前近代的であろうとも、そこにどれほどの自己形成、自己鍛錬の努力が込められており、どのような新しい人間像が樹立されつつあったか問題である」  

 と述べているが、この石門心学の影響が、当時の人々の「心の自然」や、人間の自然な自発性を引き出す「心の本性」が、民衆的思想として根づいていったことは確かなことのように思われる。
 森田の家系も、この自主独立を徳目とする多くの人を輩出した。森田は、これを孟子の「恒心」(人間としてぐらつくことない、常に変わらない心)の思想として注目したが(註11)、森田療法の実践的な行動もこうした東洋思想とのかかわりに無縁とは思われないものがある。

 以上のような当時の社会事情から考えると、森田療法が神経質病理の究明に心理学的な方法論によって確立した治療法だとしても、その本質となる治療原理や治療目標の説明に禅用語が比喩的に用いられたことは、ごく自然な成りゆきであったように思われる。


 森田の治療思想にみられる東洋思想 ~特に自然観について~  
  かつて高良武久は、森田療法が現代に存続する理由として、症状や治療についての説明が治療者に限らず、患者にも理解されやすく、しかも治療の実施が容易であることを挙げている。(註2)
 そのことは、時代や社会生活の変遷にかかわりなく、森田が目指した変わることのない精神療法の基本的な条件である。
 そして折に触れて森田は、病む心の病理や治療の基本になる「自然な心」(註5)とか「人間性の事実」(心の事実)について、これをわかりやすく解説することに心を配ったのである。

 森田は、思春期の頃から生死の問題に関心をもち、東洋思想とか仏教史の書物を熱心に購読した。しかし医学を学ぶにつれ、人間性の理解には科学的な心身の機能や、その相互関係を明らかにする必要性に気づき、精神医学に興味をもつようになったという。  大学院での森田は、当時の動向に反して精神療法を専攻科目とし、そのかたわら、心理学や催眠法を聴講し、心身の働きと環境との関係に関心を寄せた。
 この一連の行動から見ても、森田が東洋思想の素養を基に、西洋の学問的知識を懸命に吸収しようとしたことが想像される。
 そして森田は、苦悩する人の心の働きを子細な臨床観察を通して、その病理と治療との究明に専心したのである。
 したがって、森田が臨床的に心身の現象と環境との関係を究明する過程で得た認識は、単に個々の現象の分析的な説明というより、心身を統合的に捉えた人間性の本質に関する洞察であった。

 たとえば、森田が「自然な心」とか「事実唯真(註8)」と表現する言葉の含みには、人間の生命活動を、心身同一論の視点から「生の力」を根源として自律的に発動するシステムの現象と見る生命論的識見があった。(註1)
 それは、ヒポコンドリーの臨床的観察から始まるが、やがて森田は、これを「死の恐怖」と「生の欲望」との相対的概念に置き換えて把握するようになる(註7)。それは、人間が現実にいだく恐怖と欲望とは、いわば同一物の表裏の関係にあり、この両者は「生の力」によって発動され、調和のとれた自己生成への道をひらくという認識に導くものであった。
 その認識から森田は、心身の活動は自然な現象であって人為で左右できるものではなく、特に心の現象の「自然さ」は天然自然と同じく、それ自身の自律的な変化であり、その変化のままの在り方が「人間の心の事実」であるという考えをもった。そしてそれが森田説の核心となった。つまり、外なる自然と内なる自然とを統合する直観把握的見解である。
 森田は言う。(註410

「自然とは何であるか。夏暑くて、冬寒いのは自然である。暑さを感じないようにしたい。寒いと思わないようにしたいというのは、人為的であって、そのあるがままに服従し、これに耐えることが自然である」

「死を恐れ、不快を厭い、災いを悲しみ、思う通りにならないことを嘆くなど、皆人の感情の自然であることは、恰も水が低きに就くと同様である」

「親に叱られ腹立たしいとかいうのも、時と場合における自然な感じである。皿を落として割って、思わず継ぎ合わせてみるとかいうのも同様で、いまさら継ぎ合わせても仕方がないというのは単なる屁理屈であって自然な感じではない」

「われわれの自然な心は、驚くべき微妙さをもって、周囲に適応して反応している」


 このように、森田が述べる「心の自然」とは、人為、作為から区別される、ありのままの 本性(無意識的な生の力の働き)であり、本来 人に備わっている性状である。  この本然の心の働きは、人のあらゆる出会いの場で、心身の活動を活動たらしめる自発性そのものの現われであり、人為では統御のできない心の事実である。
 また、この自然な「心の事実」に任せる素直な生き方が、人間の「純な心」であり、自己本来の「自然な心」の在り方であると森田は考えた。
 つまりそれは、心の今の働きそのものになりきることであり、「見るもの」と「見られるもの」という区別がなされる以前の意識活動そのものである。この状態は、主客合一的な直覚的自己統一の経験(純粋経験=西田幾多郎)と言えるのかもしれない。

 森田は、この自然な心の働きを無為注意といい、金剛般若経の言葉「應無所注而生其心」(まさに住するところなくしてその心を生ず)を引用して、その自然な働きを次のように説明 している。

「この状態にあって人は初めて、事に触れ、物に接し、臨機応変、直ちに最も適切な行動を持ってこれに対応することができる」註511

 日本では、万葉の頃から人間事象とこの「自然(じねん)」との密な繋がりがあった。特に仏教ではその傾向があり、たとえば親鸞が自然法爾(じねん ほうに)(註21)と唱えたのもその一つであり、自力のはからいを一切捨てて、如来にすべてを任せる意味であった。
 その「じねん」とは、現代の対象化される外なる自然の意味とは違って、心の内なる「おのずからなる」在り方、つまり「心の本性」を形容する言葉であった。
 その観点で「じねん」は、「おのずから然る」と「みずから然る」という読み方で表わされるが、そのいずれもが「それ自身の内にある働きによってそうなる」という意味であり、それは、「はからい」のない「もとからそうである」という「自明」で「自由」な心の在り方を形容する言葉であった。
 ここで言う「自由」とは、鈴木大拙によれば、西洋のリバティとか、フリーダムとは違い、「おのずからそのものがそのものである」という意味のものである(註22)。そこには圧迫から逃れ解放されるという受動的なものはなく、人の心の能動性を示すものである。
 その自由観に準じた見方から、森田はこのように説明する。(註5)

「人間の健康な意識活動とは、その働きがある一点に集中、固着することなく、しかも全神経が常に活動して、その緊張があまねく行き渡っている状態である」

 つまり、健康な人間の心の在り方は何物にもとらわれない「おのずからそのものがそのものである」意味で自由であり、自然であると考えた。ところが人は皆、この「自然で、自由である」心の現象を自分の意のままに操作できるものと思い込むのである。  強迫観念の発症は、この本来の「心の事実」に気づかず、適応不安の心理から、これに逆らい「斯くあるべし」と願い、「斯くある現実のこと」と葛藤して、とらわれが始まる。
 森田は、この過程を心因的に発展する現象として理解し、これを「思想の矛盾」と概念化した。そして時と場合に応じて、禅の用語で比喩、解説した。
 たとえば、「心随萬境転、転処実良幽。随流認得性、無喜亦無憂。(心は万境に随って転ず、転処実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜びもなくまた憂いもなし)『臨済録』」などがそれである。

 森田療法の治療論も、この心理の自覚が治癒に向かう前提となる。つまり、日本人の思惟として、外的・客観的な自然界の現象をそのあるがままに受け取るのと同じように、人間の自然な心の働きをそのまま受容する素直さが基本にはある(註17)
 しかしその反面、人の心は、何かに執着し、それに迷い、とらわれて全体の動きを見ることができなくなることがある。そのとらわれの心とそれに抗する心の葛藤、つまり思想の矛盾に心を奪われ、人は自然な生の力を生み出す場所、つまり、自己そのものを生きる主体的場を見失うことになるのである。
 これに対し森田療法は、現実の境遇に背を向けず、直面する技法で、患者が「純なる心」を生み出す真の自己の主体的場を見出すように働きかけるのである。

 つまり森田療法の治療者は、症状にとらわれている患者の状態をこう理解する。  “自己の欲求実現に当たって生じる様々な抵抗や苦悩に対して、それを回避し、自分の生存や生活実践にとって障害となるものとして異物視し、その解消に心を奪われ、かえって本来の自己の主体的場を見失っている。”
 つまりそれは、部分を見て全体を見失うことであり、比喩を借りれば、“角を矯めて牛を殺す”(小さな欠点を無理やり改めようとすると、かえって全てをだめにしてしまう)である。
 その治療の具体的な展開が、臥褥と作業による組織的な治療法の実践にほかならない。その過程で患者は、「身」をもって苦悩を我慢しながら、その働きそのものに成り切る自分に気づいていく。
 そしてそんな「生の欲望」の発揮は、興味や自信を呼び、思想の矛盾のとらわれから次第に解き放たれ、自由で自然な心身の働きを展開していくのである。
 その意味から、森田療法の実際は、心身の強化、鍛錬と、心の自然の自覚である。  患者は、みずからが症状とする苦悩に耐えながら、現実を精一杯に生きる努力が基本とする。そして患者は、そのことを治療者とともに見極めていく知性と決断と行動が求められる。つまり、自己の境遇に直面しながら、あるべき行動の実践が、やがて自分本来の自然で、ありのままの自己の生き方であることに気づくのである。


 森田療法と仏教との異同
 ひるがえって仏教の本質の自覚も、それは、釈尊が人間の苦しみを直接体験して道を求めたことに始まっている。
 人間の精神的、肉体的苦しみをどのようにしたら解決できるか。この尽きることのない煩悩の苦しみが、逃れられない人間存在に根ざす事柄であるなら、それを超えて生きることしかないと気づくことに、仏教の悟りの道がひらかれる。
 そこに「執着をされ」という釈尊の「教え」と、自己の苦しみを見つめ、それに直面して「あるべき自己」を実現して生きる規範としての「法」(註15)がある。

 これに対して森田は、その治療に当時の西洋の治療法であった絶対臥褥法を取り入れた。しかし森田のそれは、単に安静、鎮静という目的だけではなく、避けることのできない自分自身とその苦しみに直面することが、ありのままの現実を受容する最適の方法であると考えたのである。
 森田はこう述べている。

「自然に服従し、境遇に柔順なれ」註10)

「斯くあるべしというはなお虚偽たり、あるがままにある即ち真実なり」(註9)

 このように、心の事実に素直に従う他ないという「事実本位」の教示は、自己を修める「経」と「法」に基づく仏教の教えにも似てはいるが、その発想の根拠は異なるものである。
 仏教が人間のあるべき姿として、無我を説き、我執を離れて煩悩をどこまでも断ち切る彼岸に悟りを求めるのに対して、森田療法は苦悩と欲望を断ち切るのではなく、その両者の葛藤を現実の境遇として受け止め、自己実現へと向かう決断と実行にその特徴がある。
 しかし、この両者の本質は、一方は信仰による「心の救済」であり、片や治療による「適応性の回復」というように、その方法と目的を異にする。

 森田療法の治療は、仏教の「自己を拠り所とせよ」のように、知的理解よりも自己の体験の深さを問うことにある。しかし、森田療法で目指す「本来の自己」とは、はからいのない「あるがまま」の欲望と苦悩に満ちた、そのままで「自由な自己」であることに変わりはないのである。  
 

 治療目標の真意
 森田療法は、近代西洋の精神医学的方法論に基づきながら、森田がこれを脱化し、独創的な病理論、治療論に発展させたことに始まる。歴史の中での抜本的な修正もなく、精神療法として今も変わりない役割を果している事実は、日本の精神療法史においても特筆されることである。
 しかし森田療法の特徴は、ただ単に、その成立の経緯だけのものではなく、この療法の治療原理とそれに基づく治療目標の特殊性にある。
 特に、森田の自然観と密接にかかわる治療論とその実際は、現代の人たちにもそれが容易に理解され、適用されるという面で整合性があり、現代の精神保健衛生や教育上の応用面においても、真の自立を求める克己心の育成や養生心の教化にとっても成果が期待され、その普遍性の意義は大きい。
 そのことを補う意味から、反復にもなるが、改めて次のことを述べて小論の結びとしたい。

 森田療法の当面の治療目標が、症状の改善であることに違いはないが、その第一義は、“患者の抱く様々な症状は、本来、人間が自己の欲求実現に当たって意識する苦悩や葛藤に関連し、自己の欲望と恐怖とに生じる緊張関係に由来していることを患者に気づかせること”である。
 つまり、その緊張状態とは、自己の期待と不安、希望と失望、喜びと悲嘆、幸せと不幸せなど、葛藤する適応不安を抱きながらも、その間に調和と均衡の心を生み出していく心身の状態である。
 森田が「自然に服従し、境遇に柔順なれ」とした治療目標の真意は、「本来の自己」を見失い、不安や緊張関係の局面にとらわれやすい弱さと、それに抵抗し反発しようとする強さの両面を含む矛盾した心の在り方が、実はあるべきはずの心、すなわち人間本来の自然な心であることを見極めることである。
 その自然とは、人間の心が内外の刺激を受けて「おのずからそうである(無意・自働的な働き)」と、「みずからそうである(有意・自主的な働き)」を含みながら、自己の欲求実現にかかわる葛藤のままに、向上する自己へと主体的に力を結集する心の働きである。そして、それは時代を超越した自由な人間の姿であるという了解に導くものである。
 また、森田が「人生は希望である」と言ったその希望とは、観念的な言葉の意味ではなく、その表現には自己の欲求の実現に向かって精一杯生きていく、その生の働きそのものを表わす意味がある。
 したがって、それは労苦や不安に即応しながら、現実に生きる人間の自然な心の発動である。
 その意味で、森田療法の実践では、自己に与えられた境遇を素直に受け止め、直面する現実を懸命に生きるとき、その働きの中で人間本来の面目が躍如として現われてくる。その瞬間瞬間は、「前を謀らず、後ろを慮らず(註6)」、つまり今の自分になり切った状態であり、自然なままの純粋な経験である。
 こうした経験についての患者の洞察が、森田のいう「思想の矛盾」に対置される「事実本位」の心の働き、つまり「事実唯真」の姿であり、そのあるがままの心で現実に身を置くとき、自然に心は局面に対応するようになるのである。
 この「自然な心」のままに生きる生活実践が、真に治癒への道をひらくという森田療法の治療理念は、以上のような森田の自然観や人間性の理解に基づくものである。  
 そしてそれが、たとえ禅や儒教あるいは老荘など東洋思想の影響を受けた重層的な思惟であるにしても、その精神療法そのものは、森田独自の発想に変わりないのである。

 周知のことであるが、森田が「日々是好日」(雲門禅師)について述べたことは(註5)、「毎日が楽しい良き日々の連続という受け止め方」ではない。それは、 「今日は何もしなかった。今日もろくな仕事も出来なかったと嘆く。その嘆きというか、欲張りというか、その逸る心が私の最も發刺とした心であり、欲張り々々する心こそ、日々好日なのである」
 また「その好日が希望の意味でもある」と説いたことに、森田の特有な考え方があるように思われるが、その考えは、現代の人々にも通じる普遍性のある思いでもあろう。  以上のことを含めて、森田の人間観はしばしば楽天的であると言われるが、その見方は私には、いささか皮相的とも考えられる。
 森田の記述や、形外会の記事を通して想像される森田時代の神経質者の人間像は、陽と陰、光と影のようなはっきりしない曖昧で遠慮がちなようでいながら、自分勝手でうぬぼれがあり、わがままな印象を受ける。しかし、それでいて淡い木洩れ陽、光のゆらめきのように繊細で傷つきやすい。彼らは理知的であるが、幼少の頃から過敏で人見知りがあり、劣等感を抱きやすく、自己内省の強い人間像が私には見えてくる。
 そのような傾向は、私自身が感じる今の神経質の人たちから受ける印象でもある。森田時代と共通するその特徴は、劣等感と自己批判の強い内省傾向にあるように思われる。この神経質の性格特徴が認められる限り、それが先天性の素質か、後天性の形成かを問わず、森田療法は、時代を越えて有効な役割を果す治療法であると私は考えている。

 森田が強調するように、森田療法は、神経質の気質の特徴を発揮するのが主眼であり、その必須条件は、患者の素質傾向、つまり自己内省的気質の存在である。彼らが第一の原因とする劣等感や自己批判的内省は、取り除くのではなく、そのままに徹底し、発揮すればよいと森田が説くのもそこに理由がある。
 この強調の意味は、森田が神経質の体験者として、また治療者としてみずからの内省と洞察を通して神経質者への共感から生まれた言葉と思われる。  森田はこう述べている。

「はからいのない自然なありのままに成り切った心が、いかに楽なものであるかは、強迫観念の治癒した人が初めて体験するものである」

 これは、森田個人の心情と、治療者として描く自然な人の心とが二重写しとなって現われる言葉のように私には思われる。
 また森田は、こうも述べている。

「われわれの身体及び精神の活動は、自然の現象である。人為によって左右することはできない」(註5)

 この場合の自然は、「自己本来の性情」「純なる心」「自らを欺かざる心」であり、それは、「はからいのない、ありのままの人間の性情」を指し、作為的でないという意味からすれば、「おのずからなるもの」である。
 こうした森田の人間性の理解は、人間に寄せる信頼がまずなくてはならない。したがって、森田療法の治療目標を換言すれば、それは、見失った自己の回復とも言える。それが、この療法の求める「自然にかえる」ことになるのである。

 その一方、釈尊が「執着を去れ」と教えるのも、その先にあるものは「自己を照明せよ」、「自己を拠り所とせよ」というようにその「自己」に根拠を置いている。
 しかし、釈尊の言う「自己」は、絶えず煩悩にうち揺らいでいるような自己ではなく、煩悩を断ち切った先の「本来あるべき真の自己」なのである。  それに比べて森田の言う「自己」とは、絶えず欲望と恐怖に揺らぎながら生きてゆく不安定な自己であり、せいぜいできることは、欲望と恐怖との不即不離を自覚しながら生きることである。その在り方が「純なる心」であり、「不安定即安心」の自己なのである。
 つまり、森田が「純なる心」の自己とするものは、与えられた境遇において生を全うしようとする自分にとって、欲望も恐怖も、これは決して断ち切ることのできないものであることを身をもって分かる自己である。
 そして同時に、その折々の不安定な事情や境遇において不安や反発を抱きながらも、懸命に生きてゆく姿の自己である。それが、「自然な自己」の好日であり、希望である。


 おわりに  
森田療法の治療原理をふまえて、東洋思想、特に森田の自然観が、いかにこの療法の特質を支え、それが時代の変遷を通してもなお、変わらない今日的な治療の意義をもつものであるかを、私の狭い臨床の場の経験ではあるが述べたつもりである。



脚註(参考文献)

註1 ◯藤田千尋「生の欲望をめぐってーエスの概念の対置から」
 「森田療法室紀要」17巻8号、2〜14頁(東京慈恵会医科大学精神医学講座)1995~1996年。
註2 ◯高良武久「森田療法の今日的意義」
 『モダン・メディシン』6巻、79~83頁、1974年。
註3 ◯Morita.S: Der Begriff der Nervositat.
 zentralt latt tur Psychothirapie und ihre Grenz. geDlete elnscnllessel. der Psychol‐Psychischen Hygiene.Bd.12 Heft l. 1940.
註4 ◯「神経質の本態及び療法」
  森田正馬全集 第2巻 302~303頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註5 ◯「神経質の本態及び療法」
  森田正馬全集 第2巻、283~326頁、335頁、344頁、359頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註6 ◯「生の欲望」
  森田正馬全集 第7巻、270~271頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
◯「神経質者のための人生教訓」
 森田正馬全集 第7巻、472~477頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)  
◯「我が家の記録」
 森田正馬全集 第7巻、765~854頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註7 ◯「生の欲望と死の恐怖」
  森田正馬全集 第3巻、102~113頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註8 ◯「事実唯真」   
 森田正馬全集 第3巻、173頁、263頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註9 ◯「かくあるべしという」
  森田正馬全集 第5巻、345頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註10 ◯「自然に服従」   
  森田正馬全集 第5巻、185頁、188頁、258頁、313頁、550頁、552頁、554頁、556頁、627頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註11 ◯「恒心階級」   
  森田正馬全集 第5巻、267~270頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
◯「應無所住而生其心」
  森田正馬全集 第5巻、644頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
註12 ◯「私の治療法」   
  森田正馬全集 第5巻、387~388頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)
◯「神経質の療法」   
  森田正馬全集 第5巻、442頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)

註13

◯「事実本位」   
  森田正馬全集 第7巻、27頁 (高良武久編集、白楊社、1983年)

註14

◯諸橋徹次、中村元「対談東洋の心」大修館書店、1976年
註15 ◯奈良橋康明『釈尊との対話』16頁、NHKブックス、1995年
註16 ◯中根千枝「西欧文化受容における諸問題―インドと日本の場合」
「講座東洋思想9―東洋と西洋2」205~218頁 東京大学出版会、1974年
註17 ◯中村元「東洋人の思惟方法」   
「中村元全集3」44頁、春秋社、1963年
註18 ◯中村元「奈良平安時代の哲学思想」   
「中村元英文論集一日本思想史」44~47頁  東方出版、1988年
註19 ◯中村雄二郎「弘文堂思想選集―場所・トポス」171~205頁、弘文堂、1989年
註20 ◯相良亨「江戸時代の儒教」   
「講座東洋思想10―東洋思想の日本的展開」317~318頁 東京大学出版会、1982年
註21 ◯佐藤正英「親鸞における自然法爾」   
「講座日本思想1―自然」 143~188頁   東京大学出版会、1983年
註22 ◯鈴木大拙「自由・空・只今」   
「東洋的な見方」74~83頁、春秋社、1979年
註23 ◯「東洋思想」「哲学事典」平凡社、1971年
註24 ◯安丸良夫「心の哲学的意味」   
「日本の近代化と民衆思想」29~31頁、青木書店、1985

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