コラム1

【目次】
1 Top
2 藤田千尋の伝える森田療法
3 関連事項


藤田千尋の伝える森田療法

丸山 晋(精神科医)
野中 剛(森田療法ビデオ全集 監督)



 はじめに 
 この文章は、VHS版「森田療法ビデオ全集 第1巻 生きる」に付属していた小冊子の全内容を、近年の精神医学の状況に合わせて部分修正し、転載したものです。

 森田療法は、その本質の解釈は同じであっても、患者さんへの伝え方が、治療者によって若干違います。治療者の個性が反映された伝え方と言ってもいいでしょう。
 藤田氏の伝え方の特徴は、「気づき、気づかいやすい心性、性格」という、人間の正常心理の延長線上に不安障害(神経症)の病理を捉える伝え方です。  
 そして、「気づき」「気づかう」という平易な言葉を使用し、難解にとらえられがちな不安障害(神経症)の病理、その治療方法と治癒を伝えようとします。  
 「森田療法ビデオ全集 第1巻 生きる」では、そんな藤田氏へのロング・インターが行われました。以下の文章は、作品中では使用されなかったインタビュー箇所に加筆し、まとめたものです。藤田千尋の伝える森田療法を理解する補助になれば幸いです。


 1)気づき葉っぱ1

 誰にでもある気づき
 例えば、ドアの閉まりそうな電車に走って乗る。ホッとして ふと気がつくと、心臓がドキドキしている。そこで、私は心臓が悪いんじゃないかと思い、心配する。また、仕事が忙しくて生活が不規則になる。ふと気がつくと、頭が痛い、胃が痛い。そこで、私は何か病気ではないかと思い、心配する。  
 あるいは、会議でたくさんの人の前で、自分の意見を発表する。好きな人の前で、何かを話そうとする。ふと気がつくと、声が震えている、上がってしまう、うまく喋れない。そこで、私は性格が弱い、度胸がないと思い、心配する。  
  また例えば、ある日汚れたものを素手で触った。ふと気がつくと、その日から、何度手を洗っても洗えた気がしない。それが心配になってしまう。  
  そもそも、不安障害(神経症)というのは、生活の節目と思われる境遇に当たって、ふと自分の心身に起きた不都合に気づいて、それが自分の生活にとって不利な条件のように過敏な受け止め方をして、ますます気に病んでしまう状態を指します。

 3つの不安障害(神経症)
 精神科医、森田正馬(1874~1938)は、そんな不安障害(神経症)を以下の3つのタイプに分けました。

 ① 普通神経症
 身体的な変化、不都合に気づき、それを病的なもののように感じ、過剰に心配してそれにとらわれてしまう。主な症状として、不眠、頭痛、頭重、しびれ感、脱力感、耳鳴り、胃腸障害、めまい、尿意頻数、性的障害、記憶力減退、集中力困難、取り越し苦労 などです。

 ② 不安神経症(発作性神経症)
 ある条件のもとで、ふとした心身の異常さに気づき、それを病的なものとして受け止めて不安発作を起こす。初めの発作の状況を予期して、また起こるのではないかという不安から、発作や観念を繰り返すようになる。心悸亢進、めまい、卒倒感、ふるえ、胸部圧迫感、呼吸困難感 などが主な症状です。“パニック障害”は、ここに入ります。

 ③ 強迫神経症
 心に起きた不快感覚に気づき、それを自分にとってあってはならないものと受け止め、打ち消そうとしてもできない状態に葛藤し、とらわれてしまう。対人恐怖、赤面恐怖、視線恐怖、疾病恐怖、不完全恐怖、不潔恐怖、高所恐怖、閉所恐怖、縁起恐怖、雑念恐怖、などがあります。“強迫性障害は”ここに入ります。  

 気づいた後の受け止め方で不安障害(神経症)になる
  気づくということは、人間誰にでもあることです。電車に走り乗れば心臓が高鳴るし、生活が不規則になれば、自律神経の機能がバランスを崩し、頭が痛くなったり、胃が痛んだりします。また、自分にとって気を使うような人の前では、誰でも上がりますし、なかなか流暢に話ができません。清潔な状態でいたいと強く願えば、きちんと手が洗えただろうかと気になるのも当然です。
 しかし不安障害(神経症)になる人は、そんな自分の置かれた状況を無視して、心身の違和感、不都合だけを取り上げて、自分はおかしい、これは病気だ、これを治さなければと受け止めてしまいます。そう思えば思うほど、意識はそんな思いに集中していきますから、もともと症状でないものも症状になってしまうわけです。
 例えば、気温が上がる。すると発汗する。それは、気温が上がったから発汗するのであって、発汗することだけを取り上げると、私は発汗傾向が強い、異常だとなってしまうわけです。神経症になる人は、気温が上がったから発汗するとは受け止めないわけです。
 不安障害(神経症)は気づいたことへの、受け止め方の偏りのために起きてくると言ってもいいでしょう。
 森田正馬は、気づいた内容に対して、それが自分にとって不都合だと受け止め、過剰に心配してしまう気分・状態・素質を、“ヒポコンドリー性基調”と命名しました。
 また、なんとかしてそれを治そう、取り除こう、そして自分本来の生活を送りたい、そんな思いが心の大半を占めている状態を“神経質”(後世の専門家達は“森田神経質”)と呼びました


 2)気づかう葉っぱ2
 
 取り除こうと心を使うこと=気づかう
 多くの人は、ドクター・ショッピングをしたり、精神を鍛えて症状にうち勝とうとしたり、症状を取り除くことにエネルギーを使ってしまいます。それが気づかうということです。そして、この症状さえなければ生活はよくなる、という誤った認識で生活を送ります。しかし、そうしていると、当然ながらますます注意が症状に向いてしまい、症状はますます固着してしまいます。そして、生活がおろそかになっていきます。すると症状を理由に、自分のやらねばならぬこと、やるべきことから逃げ、他人にも迷惑をかけ、自分で自分を追い込んでいきます。気づかえば気づかうほど、悪循環を起こし、症状だけではない二重の苦しみを背負うことになってしまいます。
 つまり不安障害(神経症)の場合、症状にこだわっている、症状を取り除きたい、早く治したい、そう気づかっていると、自分の望んでいることと、あべこべの結果になってしまうのです。



3)心の性質葉っぱ3

  不安障害(神経症)になる人の性格特徴
 不安障害(神経症)になる人には、共通した性格特徴が見られます。一言で言えば、色々なことに気づき、気づかいやすい(神経質な)性格ということです。神経質とは・・・・、

 ① 内向的、内省的傾向
 取り越し苦労、心配性、小心、引っ込み思案、人の思惑を気にする、気にしやすい、気分本位、気分の良し悪しを気にする。


 ② 完全主義、理想主義的傾向
 オール・オア・ナッシング的な考え方、几帳面、潔癖性。

 ③ 主観的、自己中心的
 独断的、自分勝手、自己顕示(見栄っ張り)・自尊心が強く自分が傷つくことを恐れる、おしつけがましい、利己的。

 ④ 観念的傾向
 理屈っぽい、言葉にこだわる、理由を詮索する、観念的、難しい言葉を振り回す。


 気分で解決しようとして、行動が伴わない
 ヒポコンドリー性基調の気分にあると、自分の至らない部分を嘆く反面、大胆でありたい、強くありたいなど実現できないことを望んでしまいます。
 自分は駄目だ。それで引き下がれば、それで苦しさはあまりないはずですが、それにうち勝とうとするから苦しみがより強く湧いてくるのです。
 現実的に自分を受け止める人は、行動で弱さを克服しようとします。でも不安障害(神経症)になる人は、現実的な行動をとらないで、気分的にそれを解決しようとします。
 例えば、何か劣等感を持ったとします。劣等感をプラスの面として受け止めると、自分は至らないから努力をしようと思います。現実的な実行、努力をコツコツします。でも、不安障害(神経症)になる人は、現実の実行を惜しんで、気分で劣等感がなくなればいいと思うだけなのです。だから劣等感は消えることなく、終わりのない苦しみが続くのです。
 例えばお腹がすいた。だから空腹感を満たそうと食べる。劣等感も同じです。劣っているのなら行動すればいいのです。


 ヒポコンドリー性基調の裏には、よりよく生きたいと思う心がある
 ヒポコンドリー性基調。換言するとそれは、自分を守ろうとする心です。なぜそんな気分になるのでしょう? それは、いつも自分の満足する状態でありたい、よい状態でありたい、人より優れたい、優秀でありたいと思う心がその裏側にあるからです。だから自分の理想に反するものに気づくと、心はそれに集中し、自分を守ろうとし、症状を異物化してしまうのです。
 森田正馬の大きな着眼は、ヒポコンドリー性基調の裏には、それに反発しようとする強い欲望が隠されていると見抜いたことです。
 例えば、机を思いっきり叩いてみます。すると痛いです。その痛さが症状です。強く叩くから痛いのです。そのことをよりよく生きると考えてみてください。よりよく生きようとするから痛いのです。苦しいのです。でも、それはよりよく生きようとすることから起きることですから、 自分のこととして受け止めなければなりません。それが嫌だったら、よりよく生きるのを捨てなければなりません。ヒポコンドリー性基調の裏に欲望があると言うのはそういうことなのです。
 森田療法で言う多くの“症状”は、よりよく生きようとする反映です。ですから、逃げないで直面していく。そして、できた事実を認め、それを踏み台にして次に進む。それなしでは変革も向上もないのです。


 4)森田療法葉っぱ4

 薬を使わない治療
 森田療法は原則として薬を使いません。自分が症状と思っているものが、どういうものかを考えることから始まります。下痢とか熱であれば、それを取り去ることが治療の目的になります。しかし不安障害(神経症)の場合、症状でないものを症状として受け止め、それを取り除くことに悪戦苦闘しているのです。ですから森田療法は、症状を取り除こうとする心の姿勢を改め、症状に耐えさせることを目的とします。なぜなら、それは誰にでもある気づき、感覚、よりよく生きようとすることから起こってくることなのですから、取り除くこと自体が不可能なのです。ですから、薬を使って治すこととは意味が違うのです。


 森田療法の実際
 現代の森田療法には、大きく分けて二種類あります。入院療法と外来療法です。

 【入院森田療法】
 第一期 絶対臥褥期

 隔離された静かな個室で、約1週間一人でただひたすらベッドの上に横になります(臥褥)。その間、食事、洗面、トイレ以外は離床を許されません。面会、談話、ラジオ、喫煙、読書などの気休めも一切認められません。初めは治療所に来たという安堵感がありますが、次第に苦痛、不安感が強くなり、やがてそれに代わって退屈感が生じてきます。
 自分の症状、生き方のことなどに思いをめぐらせ、耐えるのが苦しくなってきます。今まで症状を取り除くことばかりを気づかって、生活が停滞したり、停止してしまった自分が、何でもいいからやりたい、誰とでもいいから話したいという思いに駆られてきます。
 つまり臥褥は、症状を取り除こうとする心の裏に隠れていた自分の健康な欲求を目覚めさせるのです。
 例えば静かな田舎に行きます。静かだな、いいな、と思う。でも、次第にいろんな刺激が欲しくなってきます。飽きてきます。それは健康な証拠です。臥褥も同じです。臥褥という体験で起きる刺激飢餓状態。それが健康な欲求を引き出すのです。

 第二期 軽作業期
 臥褥中に抱いた健康な欲求。何でもいいからやりたい、誰とでもいいから話したいという思い。一気にそれを解き放してしまうと、それはいろんな方向に拡散してしまい、すぐに消えてなくなってしまいます。ですから、軽い作業から始めていきます。
 例えば胃炎の治療の時、食欲が出ても一気に食べると胃をまた壊してしまいます。ですから、消化のよいものから食べていきます。それと同じです。
 作業というのは、掃除、洗濯、草取りなどの軽い家庭作業のことです。ですが、その際医師は、あれをしなさい、これをしなさい、と指示はしません。自分で自分の作業を見つけ出すのです。
 すると、初めは何をやっていいのか分らないと困ってしまいます。でもそれが健康であるというサインなのです。何とかしなければならないから困るのです。困るということを認めて、自分で作業を見つけ、行動します。
 作業というものは、規則正しい生活のためだけではありません。困って、行動して、その成功感の中に、自分を見つけていくのです。だからこそ作業に意味があるのです。
 また この期間、一日の行動を日記に書き、それを医師に提出します。医師は患者の心身の状態を知り、生活に関する具体的なアドバイスを行います。

 第三期 作業期
 治療環境に慣れ、自発性が高まってくるに従い、徐々に、食事作り、木工、耕作、園芸などの重い作業や責任ある仕事に着手していきます。 ペンキ塗りや小鳥小屋、本箱の製作など、仕事内容は臨機応変に選ばれます。グループで取り組むことも多く、チーム・ワークも要求されます。日記の記述は相変わらず続けられます

 第四期 重作業期(複雑な実際生活期)
 実生活に即した生活が主になります。外出、交友、催し物の見学などです。したがって、学生の場合は学校へ、社会人の場合は職場へと、実社会の中へゆっくりと参加していきます。治療の場からそこへと通うのです。時にはパート、アルバイトや求職活動も行います。
 治療所内でのミーティングの司会や共同作業のリーダー役を求められたり、先輩として後輩の面倒をみるといった役割に直面することもあります。入院前の生活や入院してからのことなど、体験記をまとめて皆の前で発表することも求められたりします。そして、退院を自己決定をします。


【外来森田療法】
 一週間に1度くらい通院をします。自分の生きている生活を背景に医師と話し合い、医師は、今まで症状を理由に逃げていた現実の生活に、初めは少しづつでも、向かい合うようアドバイスをします。そして、次の診察の時に、実際何ができたかを話し合います(治療の場)。症状に捉らわれてできない場合、症状は症状として傍に置いといて、自分の望む生活をどれだけできるか? それを繰り返し検討します。そして検討した内容を、自分の生活に戻り再び実行に移していきます(生活の場)。


 自然に従順で、境遇に服従すること
 つまり森田療法は、症状にこだわっている自分の弱さを鍛錬し、生きること、生活を背景に、本来の自分を取り戻そうとするものです。同時にそれは、自分の持っている健康な欲求、自然治癒能力を発揮させる、引き出すことを意味します。
 症状のために生活が行き詰まってしまった。でもその境遇をそのまま受け止めて、生活本来の姿勢を作り直す。自然に従順で境遇に服従すること。
 不安障害(神経症)に苦しむ人は自分の境遇の不遇を嘆きます。でも現実から出発するしかないのです。できないことをしようとしても、手段がないのです。できることから手をつけていって、自らを変えていく。森田療法は、そこに立ち戻らせようとします。当然、そこまで行くのには相当の苦しみが伴います。しかし何か成し遂げると、“これでいいんだ”、“これしかないんだ”、と身体で感じることが起きてきます。その身体で感じる感覚が、治療の目指すところなのです。


5)症状は消えないけれど葉っぱ5

 “治る”とは
 「森田療法を受けても、なくそうとしていた症状はなくならないんです」
 森田療法を受けた人から、よくそんな言葉を耳にします。不安障害(神経症)が突然治るとうことはまずありません。
 “治る”というプロセスには、いろいろな段階があります。症状がなくなる事が、即、治ることと多くの人は思いがちですが、症状がありながらも、必要なことをやれているということが、治癒への第一歩です。ここまでくれば、“臨床的治癒”と言ってよいのです。
 入院療法の場合、この時点で退院可能の段階と考えます

 理解ではなく体得
 しかし、頭で“症状は症状ではない。それは取り除けない。症状はそのままに日常を送る、必要なことをやる”と理解しても、行動に移すのはなかなか難しいものです。症状を持ったままやり遂げた後の、言いしれぬ爽快感はイメージできても、恐怖感が先に立って行動することを妨げてしまいがちです。
 森田療法では、その時点では森田療法を理解したとは言いません。実際に症状を持ちながら、辛いながらも自分のやりたいこと、やるべきことを実行できて、初めて理解したと言うのです。つまり体得ということです。
 例えば、自動車を運転したいと思う。自動車の構造、運転方法を机上で理解しても、その日から自動車を運転することはできません。やはり実際に自動車に乗り、練習をして初めて運転できるようになるものです。それが体得ということなのです。

 自分は何を求めているのか?
 苦しくても行動をすると、徐々に苦しみはやわらいでくるものです。そして、何年も経つと、最後には「なぜあんなことで苦しんでいたんだろう」とさえ思えるようになります。それは、自分が本来やりたいと思っていたことができるようになったからです。
 つまり自分が何を求め、どこで満足するのか? 自動車の構造を理解したいだけなら、机上の勉強だけで済むはずです。しかし、もし運転することを求めているのなら、苦しくても実際に自動車に乗り、運転の練習をするしかないのです。それ以外に道はないのです。
 森田療法も同じです。症状はそのままに行動することが嫌なら、そこで止めればいいのです。そこで自分の欲求が満たされれば、それでいいのです。でも、自分の求めていることがその先にあるのなら、やるしかないのです。苦しいかも知れないけど、やるしかないのです。なぜなら、自分の健康な心がそれを求めているのですから。


6)第二の気づき葉っぱ6

 生きるということを背景に、症状を見る
 気づくということは、人間が生きる上でとっても大事なことです。気づきがなければ発見もなければ、創造もありません。神経質な人は、いろいろなことに気づきやすい素質の持ち主です。それは悪いことではありません。人より気がつくということは、むしろいいことなのです。
 しかし、気づいた内容を生活に不利な条件と受け止めた場合、心はそれを排除しようと流れていき、神経症への道をたどります。
 森田療法は、自分の納得できないものを取り除いてしまうという療法でない限り、そんな心の受け止め方、心の姿勢を変えていくことを促していきます。
 ですから、まず最初に気づいた時の受け止め方、これがあるからダメなんだという受け止め方が、自分にとって誤りだったということに疑問を持たばければなりません。気づかなければなりません。
 そして、自分本来のあるがままの行動を通して「不安があってもいいんだ。いや、不安があってもやるしかないんだ。なぜなら、自分の求めているのは、自分を向上発展させたいんだから。こうでしかないんだ」という第二の気づきが生まれてくるのです。
 それは自分の生活、生き方全体を通してみなければ、なかなか気づかないことです。症状だけを取りだして考えると、症状が物になってしまいます。
 私たちがどうにかしようとしている対象は、物ではなく、生きることそのものですから。生きていることを背景に、気にしていること、その受け止め方を見直して行かなければならないのです。

 自分を活かすということ
 生きること、生活することには調和が必要です。それが健康というものです。ですから、症状を取り去って調和させるのではなく。気づかいながら同時にやるべきことをやっていく。そうして初めて調和がとれるのです。
 気づくこと、気づかうことは悪いことではないのです。ヒポコンドリー性基調の裏には、生の欲望があります。それに気づいて、発揮させて上げれば、調和が生まれるのです。やりたいことに力を注げるのです。症状を無くすのではなく、自分の長所を活かしてあげるのです。現実の行動を通して自分を発揮させるのです。
 そして、症状を持ったままでも、やりたいことがなんとかできている、そんな調和の取れた自分に気づいたとき、「ああ、取り去ることはないんだ」そう実感するのです。
 気にする自分を否定するのではなく、気にするという長所を育ててあげるのです。生産的な自分を育てるのです。

 こんな例え話があります。
 昔々、あるお百姓さんが畑仕事をしていると、目の前の木に美しい鳥がとまりました。お百姓さんは、一目見てその鳥を欲しくなりました。しかし、鳥は捕まえようとするとすぐに逃げてしまいます。いろいろ手を尽くして捕まえようとするけど、やっぱり逃げてしまいます。気づいていない素振りで仕事をして、ふいを狙って鳥を捕まえようとしても、鳥はパッと逃げてしまいます。
 ふと気がつくと、もう夕方になりそうな空になっていました。このままでは今日の仕事が終わりません。お百姓さんは、仕方がないから仕事に専念します。
 そして、ようやく今日一日の仕事を終えて、汗を拭こうと胸元に手を入れると、そこには、捕まえようと悪戦苦闘していた鳥が入っていました。
 で、それは何という鳥かというと、“さとり”という鳥だったそうです。

 つまり、どうやったら症状がよくなるかと気づかうと、よくならない。毎日毎日、コツコツと生活するしかない。そしてやったことを素直に認めて、また自分の生活に活かしていくべきではないのか? そうした時に初めて、自分の求めていたもの、あるいは、それ以上のものが得られるのではないでしょうか。

↑【目次】↑