森田療法 論文アーカイブス 8

【目次】
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2 森田療法と禅 ―質問紙法による調査結果の比較分折―
3 脚註(参考文献)
4 関連事項

森田療法と禅
―質問紙法による調査結果の比較分折―

丸山 晋(精神科医)岩井 寛 (精神科医)
(精神療法研究 1973 Vol4 No2 別冊)





 I  はじめに
 森田療法は、森田(註1)によって1922年に創始され、高良およびその門下を中心として、内外に評価され、各方面からの多くの研究が行なわれてきたが、文化的な背景、あるいは宗教的な側面からの研究は、十分とはいえない(註2)「森田療法と禅」に関する論議(註3)は、森田の健在なときから存在し、ある意味でこの問題は、“古くて新しいテーマ"であるということができよう。森田自身は、 この問題について、はっきりした意見を持っており、禅との直接的な関係を否定する。しかし、新福(註4)は、「森田療法というとき、広義には森田の人間観、神経症および治療理論をふくまなければならない。さて、森田の人間観は森田自身の本来の性格によることはもちろんであるが、同時に当時代の教養、時代精神などを反映したものであり、その神経症観、治癒機転観もまた、経験の定式化の過程で、禅的な人間理解から影響されることの大きいものであったことは、疑いないことである。それは森田の主観を超えている。」として、森田の盲点を衝いている。われわれが、この問題をとりあげたのは、森田療法が精神療法として、重要な位置を占めている今日において、その内と外でどのような受けとり方がなされ、客観的にどのような位置を占めているか、ということを知りたいためであり、諸科学の中での「精神療法」の位置を明らかにしたいためでもある。世界における森田療法という視点からは、大原・岩井等(註5)が、「Y.Kumasaka(註6)は、“森田の`悟り'は禅の悟りと同格である"と言い、J.Czerny(註7)Morita-Konzeption≒Zen と表現し、K.Leonhard(註8)は、“私の森田療法に対する興味は私自身が造り出した神経症のIndividual Psychotherapyと密接な関係を有するためである"」と外国人の森田療法観を紹介している。日本における精神分析が、古沢・土居・小此木等の努力により、日本的な必然性を持たせるという試みが行なわれているように、日本文化の背景のもとに育った森田療法が、日本の精神療法においてどのような位置を占めているのか、今後世界に通用するためには、現在の外国からの視点が当を得ているのか。この点を禅家の集団を対象として、検討してゆくことは、意味のないことではないと思われる。


 II 対象および方法
 対象として、われわれは、 3つのグループを設定した。すなわち、①禅の研究者および導師からなる禅家のグループ ②森田療法を実施し、または森田的なアプローチをしている、代表的な学者および実地医家のグループ  ③精神分析療法および人間学的精神療法(ロゴセラピー等)を主として行なっている、精神分析医および心理学者のグループがそれである。以後それぞれ、第I群、第Ⅱ群、第Ⅲ群と呼称する。
 任意選択されたこれらの人達、特に禅家は、主に駒沢大学を中心とする禅研究者および一般寺院の住職(曹洞宗系)を対象にして、質問紙を配り、 自由記述を求めた。
 質問の内容については後述するが、各群において、必要に応じて若干の質問の追加または削減を行なった。
 回収の実数は、 I群(禅家)25名、Ⅱ群(森田療法家)12名、Ⅲ群(他の精神療法家)13名であった。回収率はそれぞれ50.0%(25/50)、60.0%(12/20)、65.0%(13/20)であった。


 Ⅲ. 結果  

 I、I、Ⅲ群に対する質問紙を、それぞれ調査I、Ⅱ、Ⅲとして、 この順に従って結果を記す。


〈調査I〉

(1)先生は森田療法をご存知ですか?  
a) 知っている 18名(72%)
  良く知っている 7名(28%)
  およそ知っている 3名(12%)
  名前のみ 8名(32%)
b) 知らない 7名(28%)

(2)どのような療法と理解していらっしゃいますか?

内容のうち主なるものの要約

1) ノイローゼの根本療法
2) 自然的体験療法
3) 作業訓練療法
4) 自己との対決を通し、真の自己に開眼さ す療法
5) とらわれからの脱出をはかる、東洋的な 療法

(3)別紙の森田療法の解説*をお読みになって、禅家としてどのような御意見をお持ちになりましたか? 

*禅家の理解を助けるために、高良および新福の森田療法についての概説書を要約したものを質問紙に挿入した。 解答を類別すると次のごとくなった。

1) 積極的に価値づけをなした者(結構だ、秀れている、合理的だ、卓見 だ、禅と似ている、共通する点あり等) 15名(60%)
2) 一応の興味を示した者(面白い、興味あり等) 4名(16%)
3) 否定的な意見の者(賛成しかねる等) 2名(8%)
4) 無解答   4名(16%)


(1)~(3)の質問は禅家に限ったものである。

(4)禅と森田療法の間に、何らかの関係があると、お考えですか?
a) 関係あり 21 名(84%)
b) 関係なし  3名(12%)
c) 不明  1名(4%)

「関係あり」と答えた者の内訳は、次の条件を含んでいた。

1) 目的において関係あり 6名
2) 技法において関係あり 8名
3) 1)+2) 7名


(5)森田療法と禅とは、直接に関係があるとお考えですか? それとも、 日本の文化的な背景の中にある禅的な思考と関係がありますか? 
a) 直接関係あり   6名(24%)
b) 文化的な背景と関係あり 15名(60%)
c) 不明 4名 4名(16%)


(6)神経質症の治癒と禅の悟りとは何らかの関係がありますか?
a) 関係あり 19名(76%)  
  次元が異なるが関係あり 15名
  ほぼ同じもの 4名
b) 関係なし 4名(16%)
c) 不明 2名(8%)

     

(7)禅的な悟りを得てゆく人間像と、森田療法により捉われから脱して、健康になってゆく人間像と、両者の間には何らかの関係がありますか?
a) 関係あり 18名(72%)
b) 関係なし 5名(20%)
c) 不明   2名(8%)

(8)禅によって悟りに導く過程と、森田療法によって治癒にもってゆく技法的な過程の間には、何らかの類似がありますか?
a) 類似あり 21名(84%)
b) 類似なし 2名(8%)
c) 不明 2名(8%)

(9)日本にある精神療法、および森田療法に対する将来のあり方について、御意見、御助言をお聞かせ下さい。

 記されたものを、重複せぬように列挙すると、次のようになった。

1) 「治った」という意識をも、取ることが大切。
2) 禅仏法の中に、未だ採用されてよい部分がある。
3) 森田の「生活の中での治療法」が、大切だと思う。
4) 治療者の人格的影響が、治療術より、大きいように思う。技法の発展により、 この関係が逆転できないものか。
5) ノイローゼ患者が、参禅し、かえって悪化する者があるので、注意が必要。

(10)森田療法では治療のために、次のような禅と関係ある言葉*を使うことがあります。実際に禅で用いる場合と、何らかのかかわりが見られるでしょうか? それとも言葉は共通でも無関係のものでしょうか?

*「あるがまま」「心は万境に従って転ず、転ずるところ実に能く幽なり」「外相整えば、内相自ら熟す」「不安常住」「大疑あって、大悟あり」「嘴啄同時」「体得」等について若干の説明を付記したものを挿入した。

a) 関係あり 20名(80%)
b) 関係なし 2名(8%)
c) 不明 3名(12%)

 「関係あり」の理由として、全面的に認める者と、条件付で認める者とがあるが、それらを列記すると、

1) 禅の用語が、殆んどそのままの意味で用いられている。
2) 実際面において、共通した言葉がある。
3) 禅語の生かし方として、興味をおぼえた。
4) 言葉が同じであるが、患者を対象として治療者がいう場合と、学人に対して禅の師家がいう場合とは異なる。
5) 科学的な立場と宗教的な立場での相違がある。
6) 言葉が同じでも、禅的な次元と普通次元 とは異なる。


以上が、禅家に対する質問の結果である。


〈調査Ⅱ〉

 設間は、〈調査I〉にほとんど対応するものであるので、内容の要点についてのみ記す。しかし、設間については全文を記すことにする。

(1)禅と森田療法の関係について
a) 関係あり 7名(58.3%)
b) 関係なし 3名(25。0%)
c) 不明 2名(16.7%)

(2)両者の関係のあり方について
a) 直接関係あり 0名( 0%)
b) 文化的背景と関係あり 12名(100%)

(3)神経質症の治癒と禅の悟りについて
a) 関係あり 8名(66.6%)
全面的に関係あり 4名(33.3%)
部分的に関係あり 4名(33.3%)
b) 関係なし 3名(25.0%)  
c) 不明 1名(8.4%)

(4)禅と森田療法の指向する人間像との関係について
a) 関係あり  8名(66.7%)
  直接関係あり 5名(41.7%)
  間接的に関係あり 1名(8.3%)
b) 関係なし 2名(16.7%)
c) 不明 1名(8.3%)
d) 無答 1名(8.3%)

(5)治癒あるいは悟りに導く上での技法上の類似点について
a) 類似あり 8名(66.7%)
b) 類似なし  3名(25.0%)
c) 不明 1名(8.3%)

(6)森田療法を通じて治癒に導く人間像と、精神分析療法および人間学的療法を通じて治癒に導く人間像と、治療者の指向する両者の人間像の間には、何らかの差異がありますか? あるとすれば、 どのような点でしょう か。(指向する人間像について)
a) 差異あり 4名(33.3%)
b) 差異なし 4名(33.3%)
c) 不明 3名(25.0%)
d) 無答 1名(8.4%)

(7)森田療法で治癒した患者と、精神分析療法および人間学的療法で治癒した患者との間に、何らかの差異が認められるとお考えでしょうか。認められるとお思いでしたらどのような点に?(治癒像の差異について)
a) 差異あり 5名(41.7%)
b) 差異なし 2名(16.6%)
c) 不明 3名(25.0%)
d) 無答 2名(16.6%)

(8)日本における精神療法および森田療法に対する将来のあり方について

 すべての回答者が、意見を述べており、重複せぬように挙げると、以下のようになった。

1) 他宗(真言宗等)のやり方を検討してみる要あり。
2) 時代の変遷に伴った、適用を考えて行くべきである。
3) 東洋的な発想に基づく精神療法と、精神分析・行動療法・自律訓練療法・催眠療法等との相互関係を明らかにして、総合的な精神療法へすすむべきだ。
4) トポロジーとの関連で、森田を理解してみてはどうか。
5) 創始者の精神にたちもどっての、ケース研究が必要である。
6) 研究会・学会の必要がある。
7) ロゴセラピー等への歩みよりにより、森田の人間学的な変法が生まれるとよい。
8) 森田療法で不治の症例を検討するとよいと思う。
9) 他の精神療法および禅との相関を追究してゆくことが大切である。
10) 有効とおもわれるものを、森田にとり入れるという姿勢は常に大切。

 以上で、森田療法家に対する調査結果は終わる。


〈調査Ⅲ〉

 つづいて、森田以外の精神療法家に対する質問の結果を、上に準じて記す。

(1)禅と森田療法との関係について
a) 関係あり 11名(84.6%)
b) 関係なし 2名(15.4%)

(2)両者の関係のあり方について
a) 直接関係あり 0名( 0%)
b) 間接的にあり 11名(84.8%)
c) いずれでもない 1名(7.6%)
d) 不明   1名(7.6%)

(3)神経質症の治癒と禅の悟りについて
a) 関係あり 8名(61.6%)
b) 関係なし 8名(23.1%)
c)) 不明 2名(15.1%)

(4)禅と森田療法の指向する人間像の関係について
a) 関係あり 7名(53.9%)
b) 関係なし 5名(38.5%)
c) 不明   1名(7.6%)

(5)治癒あるいは悟リヘ導く上での技法上の類似点について
a) 類似あり 5名(38.5%)
b) 類似なし 7名(53.9%)
c) 無答 1名(7.6%)

(6)日本における人間学的治療法と、 日本の文化的背景との間に、関係があるでしょうかあるとすれば、どのような点でしょうか。
 この設間は、第Ⅲ群にのみなされている。
a) 関係あり 5名(38.5%)
b) 関係なし 4名(30.8%)
c) 不明・どちらともいえぬ 3名(23.1%)
d) 無答 1名(7.6%)
 解答者のうちの多くが、「人間学的治療法ということの意味が解らない」とのことわり書きをして解答してい る。

(7)森田と人間学的治療法による治癒像の差異について
a) 差異あり 6名(46.2%)
b) 差異なし 4名(38.5%)
c) 不明   2名(15.3%)

(8)両者での治癒像の差異について
a) 差異あり 8名(61.5%)
b) 差異なし 1名(7.6%)
c) 不明 4名(30.9%)

(9)日本における精神療法および森田療法に対する将来の在り方について

 全員が何らかの形で意見を書いており、それを並記すると以下のごとくなった。

1) 禅のメカニズムを科学的にすることが必要だと思う。
2) 個人崇拝でなく、真に自己と世界の認識の上に立つ治療法となるべきである。
3) 普遍的心理に立って、世界に通じる治療法になるベきである。
4) 世界で認められる論理に立つべきである。
5) 東洋的な思考方法で、普遍性のある療法を確立してほしい。
6) 森田療法の「洗練化」および「時代的適応」に充分配慮しつつ、一層の発展と、また一心理療法ではなく、精神衛生学として、社会の良識とならんことを望む。
7) 森田療法のいろいろな要素を、心理学的なレベルで分析し、明白にしていく現在の方向を支持する。オーソドックスなものを教育方法とし、その上でいろいろと適用を考えてゆくのがよい。

 これで第Ⅲ群の解答の整理は終わる。

 以上の結果をまとめたものが、次に掲げる図と表である。つまり、第1図は調査Iの設間(1)(2)(3)についてのものであり、第2図は各調査に共通した設間について、意見の分布をみる目的で作製したものである。 第1表は、各解答に付してある理由を要約し、類別したものである。

(以下、図表は、クリックで拡大されます)

第1図
第2図
2-2

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5

6

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 III 考察

  前述のごとく、禅家に限ったものとして、4つの設問(調査I・設問(1)(2)(3)(10)を設定し、森田療法に対する禅家の基本的な知識および理解のあり方を把握しようとした(第1図参照)。これによると、以下の傾向がとり出せた。

 (1)〈森田療法を知っているか〉については、約2/3弱が「知っている」と答え、残り1/3が「知らないJと答えている。「知っている」の内分けは「よく知っている」「およそ知っている」「名前のみ」と3段階にわかれ、 3:1:3とぃったおよその比率を示している。

 (2)〈解説についての意見〉については、60.0%が、結構だ、秀れている、合理的、卓見だ、(禅と)似ている、共通点あり等の理由を付して積極的な価値づけを行なっており、16.0%が、おもしろい、興味深いとして、一応の興味を示している。また、8.0%が賛成しかねるといって否定的であり、16.0%が無解答であった。

 (3)〈森田の用語に対する意見〉については、8.0%が、(禅と)関係ありと答え、8.0%が関係なしとし、12.0%が不明であった。

 (4)以上の分析を通じて、約2/3の禅家が、森田療法に対してかなりの理解を示し、またその根拠も的を得たものであることが、調査I設問②⑨⑩での解答のあり方からも裏付けられる。  次に禅家(I群)森田療法家(Ⅱ群)精神分析および人間学的なアプローチをしている精神療法家(Ⅲ群)とに共通な設間に沿って考察する(第2図、第1表参照)。

 (5)〈禅と森田療法との関係〉については、 I群は、生活体験や自己の本来性を重視し、人間の本質のとらえ方お:よび指導の方法やプログラムに関連を見出し、I・Ⅲ群は、両者が日本の文化圏の中で形成されたことと、あるがままという自然受容の態度や禅語が生かされているということに関係を見出している。分布的には少ないのではあるが、「関係なしJの理由として、3群とも宗教と科学という立場の違いにふれており、I群では、 これに禅は健全な知性を扱うという考えを、Ⅱ群では森田(正馬)自身の主張を加えている。つまり、「関係あり」とする理由については、各群にあまり差はないが、「関係なし」の理由としては、それぞれの立場の違いが露出しているといえる。

 (6)〈関係のあり方〉については、I群に「直接関係あり」とする者が24.0%あったのに対して、I群は100%、Ⅲ群は84.8%がこれを否定していることは、興味あるところである。その理由として、①真の人間性の自覚と発展が得られる。②禅が療法に生かされたと考えられる。③発想の基盤である人間観が同一、ということが挙げられている。 これに対して「間接的な関係」ということになると、いずれも日本文化を背景とした禅であり、森田療法であるという見方をさまざまに表現しており、3群の間に特別な差異はないようである。ただI群で提出された「森田は意図的に禅との結びつきを考えなかった」という見方は、科学者としての森田の姿をみており、それが禅家の中から出されたものとして、注目に値する。

 (7)〈神経質症の治癒と禅の悟り〉について、I群において76.0%が共通性を認めているのに対して、Ⅱ群、Ⅲ群ではこれより少なく、それぞれ66.6%、61.6%となっている。これは以下の理由の検討からも裏付けられるように、精神療法家が治癒機転を宗教の悟りとは別のものとして考えているということを反映しているものとおもわれる。理由として挙げられたものを検討すると、 I群ではもっとも多くの分布を示し、「次元が異なるがつながりがある」と部分的に関係を認める意見と、「全く同一」とする意見とが混在しており、後者はI群に特異的であり、前者では悟りというものを広く多義的にとらえ、その中に神経質症の治癒を包含せしめて、「関係あり」としている。その内容には、 とらわれから自由になること、人間の本来性に基づきあるがままになるということなどが含まれている。関係なしとする立場は、 I群では禅の修業で神経症が禅病に発展してゆく傾向を理由に挙げているのが特徴的であるが、 I群では「悟りというものが頂であり、瞬間である」という鈴木(大拙)の言葉を引用して両者の差を挙げ、また臨済禅とは無関係としている。「関係なし」の理由として、 3群に共通のものは見い出せなかった。

 (8)〈悟りの人間像と森田療法により得られる人間像〉については、上の設間での場合と同じような分布を示している。そして、 3群がそれぞれ似たような意見をあげている。ただ「次元が異なるが同一軌道上にある」として、禅が深さにおいてより深いことを示唆している者が、I群、I群に多い。これは上の設間でもI群に一貫した傾向であるといえるが、Ⅱ群でも多くを占めているということは、森田療法家の多くが、治癒像を必ずしも禅の悟りに拘泥しないという見方に立っているためであり、禅家とは自づとニュアンスの差が出ているようである。とらわれからの脱出、自己に目覚める、あるがまま等が3群に共通した見方ではあるが、Ⅲ群においてindividuationという表現をしているのは、西欧的な視野における共通性という意味で注目に値する。「関係なし」の理由の中で、 次元が異なるということを理由の第1義とする傾向があるが、その内容は「科学と宗教」あるいは「対象が禅は健全な精神を、精神療法は病者を」という2種類の、2分律でとらえていることがうかがわれ、それが人間的自己洞察≠悟り、人間性の認識≠解脱という用語の非類似性の指摘へと結びついていると考えられる。このことは、I、Ⅲ群において顕著に現われ、 Ⅱ群においてはきわめてわずかしか見られない。それはI、Ⅲ群の方がこの設間について、客観的にあるいはCriticalに考えられる立場にあることを反映しているといえるかも知れない。

 (9)〈技法〉については、悟りと治癒の問題に関連して、I群に非常に多く(84.0%)共通性を認める者があるのに対しⅡ群では66.7%と少なく、Ⅲ群では38.5%とさらに共通性を認める者が少ない。これは⑧⑨で検討したこととも関連するが、精神療法家は治癒を疾病からの自由と考え、悟りと一線を引いており、森田療法以外の精神療法家は特にこの点を厳密に考えているということがあろうもI群の中では、「ほとんど同一」とみるものもあり、森田療法への類似性を認める立場の極を形成している。Ⅱ、Ⅲ群においては、「治療者が状況を与えて、 日常生活での行的な体験を重視し、思想の矛盾を打破して、葛藤を自然に受け入れることにより解脱させる」ということで、共通の理解のされ方があることがわかるが、 I群ではこれらのことを、禅的な類似語で補っているという関係にある。つまり、「冷暖自知し、脚下照顧する過程で、自己の身心のあり方に目覚める」「臥褥と旦過寮生活、作業と作務、面接と参師聞法が対応する」「把住・放行の作略を用いる」等がそれである。また、師との人格的なふれ合いに共通性を見い出すものもあった。このことからも、I群では禅の中で森田療法を包括できるという立場が「次元の差」という形で表現され易いという経緯が理解できる。「類似なし」の理由は、(8)での場合と意見の分散の上でほとんど変らないといえる。

 次の2つの設間は、Ⅱ、Ⅲ群について、そして、それについで1つの設間がⅢ群に対してのみ設定されている。その理由は、禅家にとりこれらの設間に答えることはかなりの無理を強いねばならず、実際不可能とおもわれたためである。したがって、われわれの意図するところは、Ⅱ群、Ⅲ群における意見のバラつきが、「指向する人間像」および「治療像」について3群に共通する設間の反応を考察する際の参考にできるのではないかという点にある。以下にその傾向と検討を記す。

 (10)〈森田療法と他の精神療法の指向する人間像〉については、I群が約1/3に、Ⅲ群は約1/2に差異を認めている。これに反し、 I群の1/3およびⅡ群の1/3強が差異を認めていない。Ⅱ、Ⅲ群において対立する意見はないが、 さりとてまったく共通の表現もみられない。対象が異なり、アプローチの仕方が違い、指向する人間像のとらえ方に差異があるという点が、両者に共通した意見といえるが、「差異なし」ということに関しては、「窮極の人間観として、真の自我実現をはたし自由人となる点治療者に徒い、現象を実在的に体験し、自己と世界の正しい認識を通じて、indiuiduationを実現する。」というニュアンスの違いこそあれ、内容的には一致した理由が述べられている。なお分布の上での違いは、先にふれたように、Ⅲ群において特徴的な“厳格な規定をする"という一貫した態度が、 ここにおいても現われているためとおもわれる。

 (11)〈森田療法と他の精神療法における治癒像の違い〉については、Ⅱ群は41.7%、Ⅲ群は61.5%が差異を認めており、上述の傾向がさらに明白になっている。すなわち、Ⅱ群の方がⅢ群に比し相互の療法についての差異をより少ないと受けとっている。しかし、不明であるという部分が1/4~1/3を占め決定的な傾向はとり出し得ない。ただし、 ここでのⅡ群とⅢ群との比較は、 I群とⅡ群の比較の際の分散傾向によく類似しているといえる。理由については、 Ⅱ群では、根本療法と対症療法であるという森田の考えに準じている者、 日常生活のおくり方が違う等の差異を認め、Ⅲ群では、森田療法の治癒像に指導者礼讃や自己訓練的な傾向があり、精神分析では依存的な治癒像、人間学的な療法では「甘えのない西欧的な人間」になる、という点で差異を明らかにしている。しかし、窮極においては本質的な差がないというのが両者に一致している。

 (12)〈日本における人間学的な治療法と日本の文化的背景との関係〉については、Ⅲ群のみの設間ではあるが、38.5%が「関係あり」と述べ、30.8%が「関係なし」と述べている。禅と森田療法の関係のあり方についての設間で、Ⅲ群が92.4%に「関係あり」としていることに比すればかなり低い数値である。「人間存在の共通性からみれば関係があるが、文化の上では異なった点もある」という意見が中間的なものとして存在する。

 (13)上記3設間でのⅡ、Ⅲ群の内容的な比較を通じて、われわれが「森田療法と禅」というテーマで、I群、Ⅱ群の比較をメインに据え、Ⅲ群をコントロールとして配置した妥当性というものが、ある程度いえると思う。

 以上各設間に沿って考察を進めて来たが、ここでもう一度全般的なことに触れて、考察を終わりたい。
 森田療法について、禅家、森田療法家、他の精療療法家がどのような受けとり方をしているかを、アンケートによる実際的なデータに基づいて概観したわけであるが、 3者の見方は「科学と宗教」という水平的な軸と、次元を問題にする垂直的な軸とでとらえられ、それぞれの立場の違いを見せている。しかし、本質的な差異はみられない。「森田療法と禅」という問題で、森田自身の見解はそのまま尊重されなければならないが、森田が断定したように、すっかり整理されている問題ではないことを改めて認識した。E.From(註9)の業績のごとく「精神分析対禅」というとらえ方も、比較文化論的な視点で多くの意味を持つが、それと同じ意味で「森田療法対禅」ということを論ずることは、多くの重要な問題を内包しているといえる。また、森田と歴史上の禅の師家との対比より、森田療法の本質に迫ろうとする鈴木(註10)の立場や、禅の中での治療法的側面を定式化した佐藤、秋重等(註11)の「禅的療法」の立場も精神療法の一研究方法であろうが、われわれはこの問題に対して、アンケートによる実際的なデータからアプローチを企てた。



 IV まとめおよび結論

 (1)われわれは、森田療法の現在的な受けとられ方を、禅家(25名)森田療法家(12名)精神分析および人間学的療法を主とする精神療法家(17名)について、質問紙法により比較検討をした。

 (2)禅家は72%が森田療法を知っていると答え、60%が関心をしている。
 
 (3)森田療法と禅との関係のあり方については、「直接関係あり」としたのは禅家(24%)のみで、「背景にある日本文化と関係あり」と受けとっている者が、 3群ともに圧倒的に多かった(平均81.6%)。

 (4)神経質症の治癒と禅の悟りについては、過半が共通性を認めている。(平均67.2%)

 (5)悟りの人間像と森田でのそれとの差異については、悟りの人間像が「次元的に高い」ということが、禅家で多く指摘されている(60%)。

 (6)技法については、似ているとする比率は各グループでかなりの差を示している。すなわち、禅家(84.0%)森田療法家(66.7%)他の精神療法家(38.5%)であった。  

 (7)森田療法と他の精神療法における指向する人関像および治癒像についての比較では、森田療法以外の精神療法家に差異を認めている人が 多い。

 (8)禅家は森田療法について、類似点に重きを置き、森田療法家は禅との関係を限定し、差異に重きを置いてみる傾向がある。

 (9)また森田療法家は他の精神療法家に比べ、共通点を強調する傾向があるのに対して、他の精神療法家は森田療法について、差異を強く見つめている傾向がある。

 (10)この傾向は、森田療法の今後のあり方に対する意見にも反映されている。すなわち、ある禅家は、禅的なものが森田療法の中で生かされ る方面に重点を置き、森田療法家は科学としての共通の理論性を獲得してゆくことを望み、他の精神療法家は始祖の個人崇拝を脱却して比較精神療法的な接近を期待している点などで示されている。

 (11)森田療法と禅との差を「科学と宗教の違い」と規定する仕方に代表されるように、禅というものを狭く限定して、その中で考えていこうとするタイプと、禅を包括的に、expansiveにとらえていこうとするタイプがあり、同様に森田療法家および他の精神療法家でも、己れの立場を狭く限定するタイプと広くとらえている2種のタイプがあり、後者が数においては2/3程度を占めており、また、①禅家②森田療法家③他の精神療法家の順に多いといえる。

 (12)それぞれが他の分野での経験を持たないために、「不明」と答えるケースが多く、公平な比較を妨げているといえる。

 (13)本研究では、上記3集団の意見の平画的な分布を知ることを目的としたが、それぞれの意見の掘り下げは、今後に残された問題である。

 (14)禅家の意見には、禅独特の表現が多く、共通用語の乏しさを感じた。今後宗教家および精神療法家の相互理解に努力する必要があることを指摘したい。

 (15)われわれは、森田自身の立場や考え方はそれとして尊重されるべきであるが、現在の時空間の中で生きている精神療法としてこの療法の背景と定位を確実にし、その本質を掘り下げてこれを将来により有効な精神療法として役立てることが必要ではなかろうか、と考えるものである。

(稿を終えるにあたり新福尚武教授のご指導、ご校閲を深く感謝いたします。また、本調査にあたり格別な便宣を賜った駒沢大学秋重義治教授を始めとし、解答をよせられた諸先生方に深甚なる謝意を表します。)



脚註 (参考文献)

註1 森田正馬:神経質の本態及び療法、呉教授在職25年記念論文集、1922
註2 高良武久:森田療法、 日本精神医学全書5、金原出版、1965
註3

森田正馬…神経質療法への道、人文書院、1935

註4

新福尚武:森田療法、異常心理学講座8、みすず書房、1968

註5

大原健士郎・藍沢鎮雄・岩井寛:森田療法、文光堂.1970

註6 Kumasaka、Y:Discussion on Morita Therapy、International Journal of Psychiato Vol. l No. 2 1966
註7

Czerny、 Y: Zu den psychopathologischen und philosophischen Fragen der Japanischen Neuro‐senpsychotherapie nach der Morita‐Konzeption Akt. Fragen Psychiat、 Neurol. Vol. 6:66. 1967

註8 Leonhard、K:Die Japanische Morita-Therapieaus der Sicht eigener psychotherapeutischer Verfahren. Arch. Psychiat Nerven kr.、207:185、1965
註9 鈴木大拙・E、フロム・R、デマルティーノ(佐藤・小堀・豊村・阿部訳):禅と精神分折、創元社、1972
註10

鈴木知準:盤珪禅と森田療法の精神指導の態度についての考察、精神医学、Vol.14 No.8.1972

註11 佐藤幸治他:禅的療法・内観法、文光堂、1972

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